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Doma-Mikó István:日本映画史上において (A Mifune legenda)

(A japán irásjelek megjelenitéséhez töltse le a japán nyelvi csomagot!) 1997年クリスマスイブ、東京三鷹の病院で、骨までやせた77才の男が死にかけていた。ベッドのまわりには近親者のみが見守っていた。二人の息子、すでに亡くなった親友の妻、主治医。男は頭を持ち上げて苦しそうだが毅然とした顔で何かを言いたげだったが」、もう力は残されていなかった。枕に頭を落とし、目の焦点が止まり、凍結した目から涙が一粒、玉のようにこぼれ落ちた。その数時間後、マスコミは日本映画史上において最も偉大な俳優であり、ベテラン映画製作者でもある三船敏郎が亡くなった、と全世界に報じた。ハンガリーでは脇役としての「将軍」シリーズや、ほかの多くの映画の主人公(七人の侍など)で知られていた。全ての映画評論家は異口同音に、この島国の歴史においてこれまで三船のような傑出した才能の持ち主は現れなかったし、今後も二度と現れないだろう、と語った。私は三船敏郎が亡くなった知らせを東京の自宅で知り、衝撃を受けた。素晴らしい俳優、素晴らしい人だった。彼の名前を私は9歳のときに、クリスマスプレゼントにもらった映画百科本の中で知った。日本の俳優として名前はたった一人、三船だけだった。社会主義体制下での当時のハンガリーでは、文化政策の網により、許可されていた日本映画は3本のみであった。「ハラキリ」と「裸の島」、そして「七人の侍」である。そのうちの3つ目にあげたものを私は10回以上も繰り返し観賞した。黒澤・三船コンビによるこの作品についてはたった1回くらいではとても物足らず、何回でも見たいという欲求に駆られたのである。 やがてこの東洋の国は、私の二番目のふるさとになる、そしてこの名作を吹き替えなしで見ることができるようになるとは、夢にも思っていなかった。そして最初の白黒の三船映画を見た後、40年近くの年月が過ぎ去り、私と三船が顔を合わせることができる幸運に恵まれた。巨匠に会うことができたのだ!! <スターのほんとうの顔> 1991年、私がオーナーとして設立したハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」にインタビュー記事を掲載するため、この巨匠と会った。彼の長男でありマネージャーでもある史郎氏に相談したところ、数日後に東京のデラックスホテルのメインホールにマスコミとテレビの人間たちの中に私ははさまれていた。 史郎氏は父の記者会見のあと巨匠との時間を割いてくれる約束をした。そして三船にインタビューをする時間を得ることができた。 他の共演者やスタッフとともに金屏風の前に座った三船はたくさんのテレビカメラやフラッシュを浴びていたが、リラックスした状態で対応していた。彼は例の鋭い視線でホテルのメインホール内を見渡した。そして視線が止まったとき、それを浴びた記者は怯えてしまっていた。彼が話すとき、あたかも雷鳴が轟くかのような太く低い声が響きわたった。声があまりに大きいので、まるで怒っているかのようであったが、それは三船にとってはただのごく普通の話し方だった。 記者たちの集団が会場から吐き出されるように飛び出してきて、私は三船のとなりにたどり着くために奮闘した。やっとの思いで廊下で彼をつかまえて、「三船さん!」と後ろから声をかけると、その声をかけられた三船さんは私の後ろのほうを探した。私たちは笑ってしった。外国人が日本語を話すという事実はただ事ではなかった。史郎さんによる紹介の後、私たちは会話のために移動した。他のスターたちは鼻が高く自分自身を誇張・誇大化し、回りの人間たちもそれに同調していた。しかし、三船は他とはまるで違っていた。彼の個性からにじみ出る簡素な自然の心で、暖かくありのままに人と同じ目線で駆け引きなしで接した。将軍から発せられるオーラにより、会って数分で人はだれでも彼のことを好きになってしまう。私とも昔からの友人かの如く話をしてくれた。そして、私の腕をもって出演した作品の中でのシーンを冗談っぽく大声で笑いながら少し再現してくれた。彼が話してくれた内容を<将軍三船 スーパースター>という記事で紹介しよう。 <将軍三船 スーパースター> 日本で大スターと呼ばれ、その名は世界の映画界でも通用しており、孤独な正義の人、勝利を誇る将軍、三船敏郎は日本武士の現代の語り部といえそうだ。 この俳優の存在は、鎧、剣をもたず、口髭をたくわえず私服のままでも、かなり恐ろしい。微笑を浮かべていても黒い目は射るように光り、鋭い声は隣室の人々を震えさせる。 ベネチア映画祭では3回グランプリとアカデミー賞をとり、主演男優賞も2回とった。またモントリオール、ニューヨーク、ベルリン、ロンドン、モスクワ、リスボンでも賞を得ている。ロスアンジェルスのカリフォニア大学では名誉教授の称号を与えられた。 本誌-三船敏郎さんが世界のスターになった成功の秘密を教えていただけますか? 三船-多少、冗談めいた話ですが、変化に富んだ人生と若干の誤解のおかげですかね。 変化に富んだ人生は今日の中国で始まり、誤解は東京で起こったことです。 本誌-という事は貴方は日の出を初めて見たのは日出る国ではないということですね。 三船-父は日本で医者を志していましたが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたのです。ですから私は中国のチンタオで1920年に生まれました。鼻たれ小僧の頃から、払は父の手伝いをしていましたが、呑気な生活は長く続かず、20才の時、満州軍の歩兵隊に入隊しました。 本誌-中国での軍隊は将軍、武士にとって良い学校でしたか? 三船-信じられない非情な条件の中で生活しました。掌は土方のように厚く、タコができました。武士の歴史には善が悪に向かって闘うという意義がありましたが、あの戦争は無益な殺戮でした。 本誌-どうして中国から日本へもどったのでしょうか? 三船-1946年に銃を捨て、父の生地で新しい生活を始めようと決心しました.両親はすでに亡くなっていましたし、親類のことは知りませんでしたので、一日中東京の町を歩いていました。ある時、急に思い付いたように、当時一番大きかった映画会社の東宝へ行って、撮影の見習いにして欲しいと申し出たのです。 本誌-この時、人生最大の誤解がおこったのですね?。 三船-ええそうです、私の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、私は審査員の前に引き出されたのです。私は変更のことなどちっとも知りませんでしたから、審査員が笑って見て下さい、と指示した時にはびっくりしましたね。困っている私をからかって馬鹿にしているのだと思い、怒り狂った酋長のような口調でマイクロフォンを通してお偉方に話しかけました。審査員全てがどれほど仰天したか言うまでもないでしょう。ただ映画監督のある人だけが喜んで、 ”こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう”と言い、”まったく野蛮な奴だ”と他の人から抗議もされましたが、”いつか野蛮な役をやらせればいいさ…”と反論したのです。 本誌-俳優としての最初のデビューはどうでしたか? 三船-まだ私自身、軍隊の粗野な部分が残っていまして、若い盗賊の役でしたが私のために書かれた役という感じでしたね。 本誌-その後、黒沢監督と運命的な出会いをしたのですね。お互いに仕事はうまくいきましたか? 三船-そうですね、18年間、監督のいろんな映画で主役をやらせてもらいましたね。『用心棒』『7人の侍』『羅生門』『赤ひげ』ドストエフスキー原作の『白痴』などは思い出深い作品です。また数多くの映画祭で賞も取らせてもらいましたから、お互いに実りある仕事ができたと思います。 本誌-映画史に残る作品『7人の侍』はハンガリーでも大評判でした。40年後を振り返ってみて、若い頃のご白身の演技をどう評価していますか。 三船-あの頃、目茶苦茶に走ったり、どなったりする自分を見ていると少し恥ずかしいですが、もらった役柄ですからしょうがないですね。百姓の若者を演じたのですか、孤児になって盗賊に立ち向かう侍の一団に加わり、正義のために命をかける役でした。本当は侍は6人だったのです。威勢の良すぎる私は侍として認められていませんでした。(笑) Hírdetés Hírdetés 本誌-1980年のノーベル賞作家のジェイムス・クラヴェルの作品から日米合作で、『将軍』という映画が作られましたが、これは世界中で評判になりましたね。このエミイ賞受賞作品の中で、貴方は日本の武士の威厳に満ちた格調高い演技を見せてくれました。その後も将軍の役には必ず貴方が指名されると伺っています。 最近では数多くの海外の作品にも出られているようですが、外国人との共演についてはどう思われますか? 三船-確かに、合作が多くなりましたが、私のほうからではなく、あちらのほうから出演依頼をしてくることが大半です。 本誌-ということはハンガリーでの映画制作も考えられるわけですか? 三船-もちろんです。ハンガリーラプソディーの国には関心を待っていますし、アジア系の民族ですから親近感を感じています。 本誌-最後にハンガリーの人達にメッセージをいただけますか? 三船-豊かな国を築かれることを願っています。またそのために諦めずにがんばってください。 本誌-どうもありがとうございました。私たちもあなたの成功を祈っております。また、あなたの映画を見たいと思っております。 <最後の6年> 三船家とのつきあいはそれからも続いている。三船氏は私が東京で主催したハンガリー宮廷料理パーティーの発起人になった。また息子の史郎氏は、ハンガリー日本博物館の発起人になった。鋭利な目を持つこの侍のここ6年のことについて、彼に話を伺う。 史郎―「1993年で大変感謝するべきことに、天皇陛下より勲章(勲三等瑞宝章)を授かりました。これはアラスカ映画「狼の影」に出演してすぐのことでした。この映画の役どころは、エスキモーの村長でした。外は零下10~20度の凍りつくような寒さの中での撮影でしたが、このころから体調が思わしくありませんでした。それから暑いハワイに行き、娯楽映画「ピクチャーブライド」に出演しました。父の役どころは旅をしながら人々に娯楽を提供する映画弁士というものでした。大正時代に多くの日本人がハワイのさとうきび畑を耕すために50人で集団移住したというストーリーの映画です。それから私たちの危機は1995年に来ました。それまで父の面倒を見るといっていた母が亡くなり、我が家は悲しみにくれました。この年、父は遺作となった映画「深い川」に出演しました。父はやせてきました。仕事の途中でよく気分が悪くなりましたが、彼の中で自分自身を取り戻すために莫大なエネルギーが消耗されました。その頃、彼と私は撮影所と病院のあいだを頻繁に往復しました。そして容態が悪化し、とうとう入院しました。それから後、外には2度と出ることはありませんでした。数ヵ月後、父は多臓器不全で亡くなりました。父の部屋は今でも生前のままの状態です。戦争時には飛行機に搭乗し、空撮写真家の役目を負っていました。飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートが最後のままの状態にあり、その他、古いいろんな物が残りました。あとでこれら遺品の数々を見て彼のことを偲ぶことができる資料館のようなものを作ろうと思っています。」 <レクイエム> 芸術家の運命は過酷である。 亡くなって初めてその空虚感からその芸術家の偉大さを改めて認識させられることがある。 三船は時代劇および映画製作者を守るため映画プロダクション・俳優学校を創設しました。この偉大なる志を達成するには、天才三船の手ひとつではあまりに大き過ぎた。1998年1月24日、青山葬儀場前には偉大な彼に敬意を払うため、映画評論家たち、親交の深かった映画関係者ら何百人もが弔問に訪れた。地方からもファンらが多数、背中が丸くなったお年寄り、リュックを背負った若者までヘビのように連なる行列をなす何百人もの人々が白いカーネーションを今は亡き俳優の大きな遺影に捧げた。集まった人々に、黒澤監督のメッセージが読み上げられた。 「三船君の訃報を聞いて驚いています。具合が悪いと聞いていたので、三船君に会いたくてずっと気になっていた。会って、本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。私が葬儀委員長を引き受けて、三船君らしく華やかに天国に送り出したい思いなのだが足腰を痛めて表に出られないので残念だ。急だったので、色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。黒澤明」 三船敏郎:144本の映画に出演し(うち126本主演)日本の映画界に50年に亘って貢献した。 Dom-Mikó István Inter…

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Doma-Mikó István: ラスト・サムライ (Az utolsó szamuráj)

(A japán írásjelek megjelenítéséhez töltse le a japán nyelvi csomagot! To display Japanese characters, plase install the Japanese language pack!) 侍(サムライ)は日本の武士階級とこの階級に属する人を表す言葉です。侍は、中世の日本、10世紀の平安時代に出現しました。当時、日本の幕府(将軍が統制する軍事政権の組織体系)が完成しました。この組織体系のもとでは、天皇が最も位が高く、その後に、大名、将軍、侍、農民、職人、商人と続きます。この時代では、刀や他のいかなる武器でも所持することは、侍や高い身分の人だけの特権でした。身分の低い人が許可なく武器を持ち歩けば、すぐに打ち首にされました。 侍は塾や道場にて、武道の知識、武器の使い方、戦い方を習得しました。彼らは、武器を扱う知識や技能に応じて俸給を得ていました。侍はある程度気楽に生活していたと思うかもしれませんが、本当の武士としての生活は、かなり不安定な状況でした。将軍は、政権を得たいがために、頻繁に天皇や大名との戦いを繰り返し、そして、権力と領地を得たいが故に、他の将軍と戦いました。他の将軍との戦いに負けた将軍は、自分の領地を失いました。侍は、主人である将軍を守るために、彼らの元で軍部隊を組織しましたが、自分たちを守るためにも戦いました。侍が戦いに負けて、何とか生き残ることができたとしても、彼らは主人である将軍を失い、浪人(浪士)となりました。浪人は多くの場合、生き残るために、町から町へ旅する裕福な商人の一団を襲う強盗となり果てました。 しかし、名誉ある侍たちの物語は不朽の伝説となり、多くの日本の映画では、侍が英雄的人物となりました。侍は、勇敢で、寛大で、忠実で、無欲です。二人の有名な俳優、三船敏郎と萬屋錦之介は、多くの映画で侍として主演しましたが、彼らはその後、亡くなりました。現在、藤岡弘、は、日本で最も偉大な侍の俳優であり、ラスト・サムライとして知られています。 15年前、私はこの伝説的な俳優に直接会う機会がありました。私たちは東京で、催し物のために一緒にステージに立ちました。彼の演武は、その夜のメインプログラムでした。 照明を落とした舞台の上で、ラスト・サムライは静かに座りました。一つの照明だけが灯り、彼を照らし出し、彼は目を伏せ、瞑想しているようでした。そして、鞘に入れた刀に手を置きました。音楽が徐々に盛り上がり、その英雄の魂の中にある強い感情を表現する語り手の声が、劇場内に響き渡りました。観客は、緊張感で微動だにしませんでした。そして、辺りが静まり返った瞬間、突然、そのサムライは刀をつかみ、鞘から刀を抜きました。その次の出来事は一瞬のうちにおこったのです。サムライは勇ましく叫んだ瞬間、目の前にあった巻き藁を真っ二つに切り落としました。そして、すばやく後ろを向いて、他の巻き藁を切り落とし、さらに、バックハンドで残りの巻き藁を切り落としました。彼は、神秘的な蝶の舞のように、複雑な連続した動きで、背後にあった竹の束を刀で小さな破片になるまで細かく切りました。彼は刀を鞘に納めましたが、彼の演武の余韻はまだ残っています。竹の破片はまだ宙を舞っていて、塵が立ち昇り、劇場には彼の雄叫びが響き渡りました。そして、突然沈黙し、そのサムライは、静かに座り頭を深く下げ、床に手をつき深々と礼をしました。そして、お辞儀をし、観客を魅了しました。観客は彼の演武で、興奮して、拍手喝采の嵐でした。その場にいた証として、感動でうち震えた空間だけを残し、サムライは姿を消しました。 それ以来、私はこの鉄の男と良い友好関係を持っています。いつもお互い絶えず活動しているので、世界の違う場所からお互いに電話し合っています。しかし、私は彼の出演映画をよく知っていますが、彼という人間を表現するには、ただの良い俳優というだけでは物足りません。彼は、非常に親切で、好意的で、傑出している人物なのです。一度、私は、彼をハンガリーに招待しようと計画しましたが、何かを計画することと計画を実行することは、残念ながら同じことではありません。というのは、私の計画は、あともう少しでうまくはずだったのです。それで、彼をハンガリーに紹介することができなかった埋め合わせに、このインタビューをすることに決めました。 先生、あなたの演武を初めて見た時、あるテレビコマーシャルを思い出しました。日本刀の刃先の上にすごく薄い絹のスカーフがゆっくり落ちてきて2つに切れたのです。日本刀はスカーフのようなすごく軽いものでも十分切れて、剃刀と同じくらいによく切れる。そういった話は本当ですか。教えてください。 私は間違いなく日本刀が世界の武器の中で一番鋭いものだと思っています。でも落ちてきた絹のスカーフを切ることはできないのではないでしょうか。そのコマーシャルの場面は、日本刀の鋭さを強調するために、特殊な映像テクニックを使ったのではないかと思います。世界で最もえり抜きの刀工が作ることができる刀の中で、最も鋭い刀でさえ、何かを切るには「引く」という動作が必要です。実際に、切断したいものの表面を横切るように刀の刃先を動かさないと切れません。もしがっかりさせてしまったらすみません。 あなたがお持ちの刀には何か物語がありますか。 私は何本か刀を持っていますが、確かにそれぞれにまつわる話がありますね。しかし、ある一本の刀は、特別に重い歴史を背負っていると感じています。その刀は私の大昔の先祖の一人から受け継いだものですが、100年以上前のもので、グリップに我が家の家紋が刻まれています。私の先祖はこの刀でいくつもの戦いで敵を討ってきました。代々、この刀の所有者は、自分自身だけでなく子孫も守るためにこの刀を持っていたのです。ですので、この刀を手に持っている時はいつも、この刀に込められた深いかなりの重さを感じます。 あなたの刀はどれくらいよく切れますか。今までにその刀で誰かを切ったことはありますか。 何万片もの竹や木、巻き藁を切りましたが、私は私の刀で生命に傷を付けたことは一度もありません。他には、鉄の塊を切ったこともあります。その時は特別な種類の刀を使いましたが。 若い頃の話をして頂けますか。 私は1946年2月19日に四国の愛媛県で生まれました。 私の父・喜市は、警察で柔道を教えていました。私の母は茶道と華道の先生で、多才な女性でした。母は、日本の伝統的な弦をはじく楽器の三味線と琴も教え、みごとな刺繍もし、料理も上手でした。母は、日本の多くの若い女性に深い影響を与えました。私は母が男性の侍に匹敵するくらいりっぱな女性だと思います。 誰が武道を伝授してくれたのですか。 私の父は、武道に精通していて、人の命を奪うためのあらゆる技法を心得ていました。父は教え子に、剣道における竹刀の使い方、ナイフの投げ方、教えるのが禁じられているようなテクニックまでも教えていました。(※以前の文章では「禁じられたテクニックも知っていた」という内容でした。) 禁じられた技法でも、お父上はあなたに伝授したのですね。 日本の伝統に倣うと、本来は、長男であった私の兄が父から武術を継承するはずでした。父がなぜ兄の代わりに私に伝授したのか未だにわかりません。父の教え、いやむしろ父の「訓練」は、辛くて厳しいものでした。日本の武道は裸足で練習するため、怪我をしやすいので、通常は、畳と板張りの床である道場で習います。しかし、父は、床が石の神社、地面が小石や砂だらけの境内で私を訓練しました。私は地面に倒れるだけで、何度も怪我をしました。父は何度も繰り返し訓練することで、私にどのように生き抜くかを教えてくれました。それは私にとってかけがえのないものとなりました。 お母様はお父上の非常に厳格な訓練方法に反対しましたか。 父は確かに厳しい人でしたが、その厳しさの中にはいつも愛がありました。育てようとする愛を持っていた母には父への深い理解がありましたので、母は父に決して反対したりはしませんでした。でも、一度母に非常に厳しく叱られたことがあります。詳しく説明するために、私の小さい頃の話をする必要がありますね。 小さい頃、私はいつもいじめの標的でした。私より年上の子供たちがいつも私をからかってきて、時々暴力をふるってきました。その時はそれほどひどいいじめではありませんでしたので、私は静かに悲しみや怒りを隠しながら耐えようとしました。しかし、ある時、彼らがあまりに深く私のプライドを傷つけたので、私は彼らに対して武道の技を使ってしまいました。それで、少年の一人が重傷を負ってしまいました。このケンカの事実を母が知った時、母は激怒しました。母は、「私はご先祖様に顔向けできません。あなたがしたことは大きな恥です。もう一度こんなことをしたら、私はあなたを殺して、私も死にます。」と言いました。なぜ暴力をふるってしまったかを説明しようと口を開こうとした時、母は、「ならぬものはならぬ。言い訳はゆるしません。」と言い、母の声は怒りでいっぱいでした。私はショックを受けましたが、この状況がいかに深刻かが分かりました。私は心の底から謝りました。そして、ご先祖様に謝るために、決して憎しみで武道を使わないことを誓わせるために、母は私をご先祖様のお墓の前に連れて行きました。それ以来、私は間違った方法で武道を使うことがどれくらい恐ろしいことかを意識するようになりました。そして、暴力に訴えずに勝つ方法を探し求めました。 日本人にとって、武道を行うことはどのような意味がありますか。 最近、武道はよくスポーツとみなされます。しかし、武道の本当の意味は、日本語で「武道」と言われるように、自分自身をコントロールする「道(方向・方法)」を示しています。もし、「武道」の「道(方向・方法)」が間違って使われたら、誰かを傷つけたり、殺すこともできてしまいます。日本では、「自分自身を制する者は心の中にどんなためらいもない。侍の「道」は、倒した相手に敬意を払い、他を許すことを忘れない。」という言葉があります。私は、日本人が心の中にこの言葉を持ち続けてくれることを願っています。 あなたの出演映画では、あなたが様々な乗り物を運転・操縦しているのを見ますが、陸上、水上、さらに空でも操縦できるというのは本当ですか。 大型自動二輪免許、大型特殊自動車免許、自家用飛行機免許も持っています。スキューバダイビングのライセンスも持っています。 お芝居の話に戻りましょう。藤岡弘、はどのようにして有名なスターになりましたか。 1971年に、私は「仮面ライダー」シリーズで一躍人気者となりました。仮面ライダーはアクションがすごいので、子供たちにとても人気がありました。本郷猛が改造人間だという特別な設定だけでなく、スタントマンなしでバイクアクションや格闘、高い所からのジャンプなど危険なアクションを自分でこなしたという現実的な要素もありました。おそらく、それで、仮面ライダーはこれだけの人気が出たのでしょう。私の名前は急速に知れ渡ることとなりました。 俳優としての幸運」はどれくらい続きましたか。 このシリーズの10話目の撮影の時でした。この回の撮影の時に、私は大きなバイク事故を起こしてしまい、左足を複雑骨折してしまったのです。当然、私は非常に動揺していました。俳優としての命はもう終わってしまったと思いました。周りの人も同じように思っていました。でも、私は志を捨てず、非常に困難な大手術を乗り越え、長期リハビリを経て、その事故から奇跡の回復をし、6ヶ月後にスクリーンに戻りました。私の左足には今でも体の一部として、金属の留め具が残っています。 この後、あなたは後世に残る映画作品にも出演し始めました。あなたが成功を収めた中で何が一番重要なものだと思いますか。 幸運にも、私はいつも英雄、良い人の役をいただきました。もちろん、批判とも闘わなければいけません。1984年に、私はハリウッドでSF映画「SFソードキル」の撮影に挑みました。私は、台本はもちろん、仲間の俳優たちも、侍を理由もなしに誰でも殺すただの殺し屋のように考えていると感じました。彼らは私を軽視しているような感じで、そのうちの一人が「ヘイ、ジャップ」とまで言ってきたのです。でも、私は彼らが私に対して何を思っても気にしませんでした。私は、侍の世界の本質は精神性だと思います。 私の成功の別の理由は、重要な歴史上の人物の役をいただいたということだと思います。私は、織田信長を演じました。新しい社会のシステムを作った最も重要な侍の一人である坂本龍馬も演じ、侍シリーズ「それからの武蔵」の柳生十兵衛も演じました。 あなたは非常に多才であるという定評があります。藤岡弘、はいくつの顔を持っているのでしょうか。 第一に、私は俳優であり、映像、また、映画を作っていきます。第二に、私は武道家として、失われつつある武士道精神と日本の伝統を守っていこうと取り組んでいます。第三に世界中をボランティア活動で訪ねる中、救済活動と主に、武道・文化公演もしております。また、10カ国以上の政治的に不安定な国にも行き、大変な時期のコソボ難民のキャンプにも行きました。 数年前に、あなたは探検隊を率いてジャングルに行きましたが、それほど危険ではありませんでしたか。 ジャングルは、肉食動物、毒ヘビ、毒蜘蛛等、危険な状況でいっぱいでした。時々、私たちは、本当に恐ろしい鳴き声や、音を聞きました。ほっと落ち着く間も、ありませんでした。日中も危険ですが、夜はテントの中にいると襲われやすいのでもっと危険でした。私の探検隊の隊員の一人は毒をもったサソリに刺されて、別の隊員はマラリアにかかり、もう一人は、非常に高い熱を出して2日間意識を失いました。私は隊長として、隊員と撮影班の身の安全に責任がありました。そして、さらに、必ず撮影を成功させなければなりませんでした。いつも死が隣り合わせだと感じましたが、皆を生きて帰らせなければなりませんでした。かなり真剣で、緊張した時間だったと想像できるでしょう。 悲劇的な出来事は全くなかったのでしょうか? 悲惨ではなくて、むしろほんの少し滑稽な出来事。私は、ある街にふと買い物をしに出かけました。ジャングルの旅から戻って、そんなに時間が経っていなかったのですが、先ほど話したように、ジャングルでは多くの危険にさらされていたので、危機センサーが鋭くなっていて、私は周囲に対して、自分の五感の危機センサーが敏感になっていました。デパートで歩いていたら、私は張り詰めた空気を感じました。数人の警備員が私を追いかけてきました。私は一体何が起こったのか、把握するまでに時間がかかりました。私の醸し出していた雰囲気で、彼らは危険を感じたのです。彼らは私が危険な犯罪者であると思って、私を取り囲んだのでした。状況が分かるとすぐに私は落ち着きを取り戻し、緊張感をゆるめて、警備員の一人に向って微笑みました。すると、すべての警備員がリラックスして、再びデパートは平和な空気で満たされました。 日本にいる時は、私は状況に応じて、五感を研ぎ澄まして周囲に気をはりめぐらせるべきか、リラックスすべきかが分かるので、私が醸し出す空気を無意識のうちにコントロールできます。しかし、遠くにいる時は、いつも周囲に対して敏感になっているので、危機センサーが鋭く敏感になって、私が発する雰囲気が、まるで戦場にいる時のような緊張したものになっているのです。警備員に追いかけられたこの経験から、私は自分自身をより意識するようになりました。そして、自分自身についてまだ知らない部分が多いこと、鍛える部分があることを悟りました。…

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