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Királyi esküvő japán módra

Akihito császár unokatestvérének lánya, Ayako hercegnő a napokban ment férjhez Tokióban. A 28 éves Ayako hercegnő egy 32 éves férfi, Kei Moriya felesége lett. Kei Moriya egy szállítmányozási cégnél dolgozik. Mivel Ayako hercegnő rangon alul házasodott, vagyis közemberhez ment férjhez, le kellett mondania minden kiváltságáról és többé nem tagja a császári családnak. A hercegnő nagy népszerűségre tett szert a japán…

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Az alkotmány létrejöttének a napja (昭和の日, Kenpo-kinenbi)

Japán mai alkotmánya, a Nihonkoku kempó (日本國憲法) 1947. május 3-án lépett életbe. Azóta ünneplik ezt a napot Japánban az alkotmány létrejöttének napjaként. A japán alkotmány leglényegesebb bekezdéseiben megemlíti, hogy a császár az állam és a népegység jelképe, pozíciója a népakaratból ered, mert a felségjogokat a nép birtokolja. Az alkotmány kimondja, hogy a japán nép lemond a hadviselés jogáról és semmiféle haderőt…

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Kamikaze, az Isteni vihar (japánul)

元特攻隊員への独占取材 “昭和20年(1945年)8月13日、戦争の終わる2日前、木更津の基地から攻撃のグループが出発しました。私の先輩である西森良臣兵曹がこう言ったのです。「川野、これから自分は出撃する。川野の新しい飛行服と自分のを取り替えてくれ。きれいに死ぬために新しい服が欲しいのだ」私はちょっと残念な気持ちで服を渡しました。なぜなら3日後自分も出撃するので、自分もその時に使いたかったのです。しかし私が出撃する日の前日、戦争は終わりました。私の飛行服は私の代わりに沖縄の海の底に沈んでいます。そして私は生きています。神様は亡くなった仲間たちを忘れないように、彼らのことを次の世代に伝えるために私を残したのだと思います” 昭和16年(1941年)、日本はアメリカの真珠湾攻撃をし、国土が25倍もの広さをもつアメリカと、イギリスと連合軍とを相手に先行きの暗い戦争に突入した。昭和17年(1942年)、ミッドウエーでの戦いで負けてから、日本の戦況はますます悪くなった。しかしながら大本営は何とか状況を好転させようと、きわめて異例の決断をした。 岡村元春海軍大佐は、特別攻撃という出撃する者は命を捨てて、爆弾を積んだ飛行機やグライダー、または小型潜水挺、モーターボートで敵艦に体当たりする方法を大西瀧治郎長官(のちに特攻の父と呼ばれた)に提案し、大本営は許可した。 世界で最初の、“命ある爆弾”となったのは、関行男大尉元操縦教官だった。関は半年前に結婚したばかりだったが、大西長官の話にすぐ承諾した。しかし、アメリカの情報のとおり、自分の身近な人間に不満をもらしていた。「自分のような逸材をも無駄にするとは、もう終わりだ。自分が引き受けた理由は、アメリカ兵が自分の妻に何をするかを見たくないからだ」彼のグループは昭和19年(1944年)10月25日フィリピンより出発してアメリカの敵艦に突入、すばらしい戦果を上げた。彼らの飛行機5機のうち4機は命中、6隻の敵艦に大打撃を与えた。うち空母1隻は撃沈した。さらに戦艦も1隻撃沈した。ほかの空母では大火事が発生し、ほかの3つの空母は著しく損傷し使用不能になった。 この戦果に動機付けられ、大本営は特別攻撃隊を創設した。最初の自爆攻撃をした関大尉を指揮官とする攻撃隊の名前は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」であった。その為、海外では全ての特別攻撃隊(特攻隊)のことを“カミカゼ”と呼んでいる。意味は神様の風。昔日本に来襲した蒙古人たちの舟を沈めた強風に由来している。 日本軍はそれから特攻攻撃を継続することになった。これによって海軍だけでも2,534人、1,392機の飛行機を捧げた。ちなみにアメリカの海軍の歴史上、特攻隊がもっとも大きな損害を与えた。 18から23歳の紅顔の純粋無垢な少年たちは潔く自らの命を国に捧げ、錆びた練習用の飛行機をも整備して、往路の燃料しか入っていない機体に250キロから800キロの爆弾を抱き、敵艦に体当たりし、壮絶な最後を遂げた。その人達は誰だったのか?敵が特攻隊に共感を持つとは誰も考えない。だが、特攻隊研究の第一人者デニス・ウォーナー(アメリカUPI東京特派員)から見る特攻隊員は、正常な精神の持ち主であり、間違いなく勇敢で決心の固い若者たちであった。若者たちは愛国心の方が生きる欲望に勝っていただけなのだ。ご自分で作られた特攻に関する資料館で、わずかな生き残りの一人である元特攻隊偵察員、川野喜一氏にお話しを伺ってみることにしよう。 ドマ「川野さん、あなたはどのように特攻隊に入ったのですか」 川野「昭和17年(1942年)5月1日に土浦の海軍に志願して入りました。予科錬に申し込みして厳しい試験を通りました。回転する椅子に座って、そのまま試験官がそれをぐるぐると10~15回まわし、背中をぽんと押した後、前に立ち上がってすぐに歩けるか。また、傾斜が増していく板の上にどれだけ長く立っていられるか。視界の広さ、筆記試験、面接などがありました。学校は通常3年かかるところを、戦争中だったので私たちは2年で終了しました。 18歳のとき、高知の空港に操縦教師の助手として勤めました。その半年後、大分の148人の御楯隊に編成されました。2人乗りの流星という攻撃機に乗っていました。当時、最新式の飛行機で1825馬力、最高時速450キロ、最大飛行距離2000キロ。しかも席がリクライニングするのはこの機種しかありませんでした。全110機しか作られず、そのうち80機がうちの隊に配備されていました。これが後に特攻に使われると聞いた時は驚きました」 予科練資料館にて(右:川野氏、左:ドマ・ミコー) ドマ「特攻隊のことをどのように聞きましたか」 川野「関行男が行った特攻の攻撃は2日後にプロパガンダで発表されました。彼に続くべく多くの志願者が出てきました。日本では長男を特に大切にするので、両親たちは2番目か3番目の息子を神風に送りました。志願した者は全員死んでしまったので、昭和20年(1945年)7月25日、大本営は命令で飛行機に搭乗するすべての者を特攻隊としました。おのずと私たちの隊も特攻隊となったのです。その日から特攻隊の攻撃が始まりました」 ドマ「それを聞いた最初の印象はどうでしたか」 川野「でも戦争は負けそうでした。ほかの人は生き延びる希望はありましたが、私たちは死ぬしかないのです」 ドマ「特攻の訓練はどうでしたか」 川野「毎日攻撃の練習をしました。2000メートルの高さから速度を上げながら管制塔に向かって急降下し、200メートルになった時に水平飛行に入ります。この訓練は戦争中たくさんの仲間の命を助けました。もし、敵機が後方から接近、追随してきた場合、我々は急降下した後旋回します。しかし、敵機は旋回すべきことに気づくのが遅く、そのまま落下していくのです。もちろん空中戦も訓練しました。敵機と縦に円を描くような空中戦になった際は、通常先に一回転できたほうが爆撃をする事が可能となります。しかし、我々は逆さまでも飛行する事ができたので、半周するだけで敵機に爆撃をすることができました」 特攻隊偵察員当時の川野氏   ドマ「死ぬことは怖かったですか」 川野「平気でした。毎日自分が死ぬことを練習していましたし、毎日仲間も死んでいったので。隊は6人から12人で構成されていましたが、攻撃の順番の番号で呼ばれていました。私の基地からは毎日2-3隊が出撃しました。1つの隊には3機の飛行機がありました。私たちの飛行機は2人乗りでしたので、毎日12~18人が亡くなるという意味になります。私は第7御楯隊に配属されました。わが145人の飛行隊からは終戦までに30名が亡くなりました。また、1,480名の予科練の同期のうち、400名が犠牲となられました。 死ぬまで忘れません。田中上等飛行兵曹は昭和20年(1945年)8月9日に特攻に出ました。前夜、兵舎の柱に幾度も頭をぶつけて言いました。“川野、やっぱり痛いなあ。死ぬのも痛いだろうか”次の日、敵艦に突入した時にどうだったのかわかったと思います」 ドマ「訓練では恐怖心を取り除くために、何かしましたか」 川野「もし、マインドコントロールがあったのではというのなら、それはなかったです。特攻に自分から行ったのではないのですが、命令を受けてからは任務遂行のために一生懸命努力しました。日本人の心と体は、古代から大和魂、武士道が宿っている。負けたときに上官から自決しろと言われれば従います」 ドマ「特攻は神風たちの狂信というイメージがありますが・・・」 川野「もうひとつの価値観があると思います。もし勝った国がやっていれば今は大変な英雄扱いでしょう。私は特攻隊では2つのタイプの操縦士がいると分かりました。1つは愛国心が強いゆえに敵を憎み、必ず死にたいというタイプ。もう1つは、生きたかったが、冷静に考えた後に命を捧げたタイプです」 ドマ「冷静に考えたのですか」 川野「そうです。アメリカの爆弾で毎日何千人も国民の命の灯火が消えました。もし、空母1隻が沈没すれば、何万人もの日本人の命が助かります。それの代わりに私達は1人の命を犠牲にする。もし爆弾を積んだ飛行機を空母に命中させれば、沈没か、大火事か、滑走路を使用不能にして飛行機の離発着を不可能にできるのです。通常通りに空爆すると成功率が低いのです。もっとたくさんの飛行機と人を失うことになりかねません。どちらの方が目的を達成する為の成功率が高いか。どちらの方が人道的か。自分の命を捧げるのが難しいのは良くわかりますが、特殊な状況下において、時々人間は自分からこれをやらなくてはならない。私たち日本人は生への執着より国を愛する気持ちのほうが強いのです」 ドマ「特攻の命令を受けたときは、どのような気持ちになりましたか」 川野「まず心が軽くなりました。やっと来たのです。上官が毎朝掲示板に近日中に特攻出撃する者の名前を張り出しました。しかし、出撃の数時間前に分かった者もいました。ある5人の隊もその様になりました。7月25日と8月2日に私も緊急で呼ばれましたが、秘密の飛行機の格納庫からトラックで機を運び出した時に取り止めになりました。多くの隊員たちは何ヶ月も名前が出るのを待っていましたが、待つことやいつになるか分からないで神経が参ることもありました。そういう隊員は早く出撃できるように祈りました。そして本当に呼ばれた時はうれしがったものです」 ドマ「家族に最後のお別れをしましたか」 川野「ほかの部隊ではそういうこともありましたが、うちの隊ではあまりありませんでした。短い時間で家族と会えるのは、少しの隊員しかできなかったのです。辛い別れでした。特攻出撃のことを知らせてはいけなかったのです。ほとんど手紙しか書きませんでした。死ぬ前の隊員はもう次の世界に踏み込んでいました。死後の世界でどうなるかはあまり無関心でした」 ドマ「特攻攻撃をどのようにやりましたか」 川野「朝、飛行場の責任者が朝礼台に上がり、その日の命令の中で誰が攻撃に行くか、名前を読み上げられ、その者が前に出ました。決まった者は別れの杯を交わし、特攻の歌を歌いました。それから飛行機に乗り込むのです。この間、にこにこしながら冗談を言ったりして、まるで遊びに行くようでありました。攻撃のグループでは神風の飛行機と一緒に偵察機と、補佐する攻撃機が行きました。攻撃機は敵機の攻撃から特攻機を守り、戦果を確認する任務がありました。でも終戦間近の時は確認までできませんでした。敵艦の方向に何時間も8000メートルの高度で進みます。初めて敵艦を見つけた者は機体を左右に揺らすのです。特攻機は士気が上がり、旗と鉢巻を機外になびかせます。鉢巻は白い絹製のリボン状になっていて、頭の後ろで結んでなびかせるのです。額に日の丸、そして目標が書かれています。 特攻隊員が使用した鉢巻 敵艦隊から80キロのとき機首を20度下げて進みます。2000メートルのとき急に機首を45度下げてモーターの動力を最大にします。敵艦から激しい反撃の中をうまく突っ込む事ができ、高度が500~600メートルになったら、機首を60度にさらに下げて急降下し、照準を敵艦に合わせ、突入します。すると、特攻機に積んである250キロから800キロの爆弾が爆発するのです。特攻攻撃は始めから全てで60秒もかかりません。電鍵を押し続けて発信音を出し続け、音が切れた時に隊員が亡くなったことがわかります。敵艦は沈没せずに攻撃から大火事になるか、破損するかだけの損害であっても、特攻隊員の体はバラバラになり骨も残らないでしょう」 モールス信号が途絶えるということは、隊員の死を意味する ドマ「あなたの一番心に残ることは」 川野「昭和20年(1945年)8月13日、戦争の終わる2日前、木更津の基地から攻撃のグループが出発しました。私の先輩である西森良臣兵曹がこう言ったのです。“川野、これから自分は出撃する。川野の新しい飛行服と自分のを取り替えてくれ。きれいに死ぬために新しい服が欲しいのだ”私はちょっと残念な気持ちで服を渡しました。なぜなら3日後自分も出撃するので、自分もその時に使いたかったのです。しかし私が出撃する日の前日、戦争は終わりました。私の飛行服は私の代わりに沖縄の海の底に沈んでいます。そして私は生きています。神様は亡くなった仲間たちを忘れないように、彼らのことを次の世代に伝えるために私を残したのだと思います」 ドマ「最初の神風たちはわかりましたが、最後の神風たちは誰でしたか」 川野「今でも最後の日のことは脳裏に焼き付いています。天皇陛下が8月15日12時に終戦を玉音放送で国民に知らせました。しかし、その日の午前中にもまだ攻撃はありました。飛行機工場では学童たちもが借り出されて働いていたので、何度もエンジン不調で引き返さなければならないことが多かったのです。この日も二人乗りの飛行機3機が戻ってきました。2機は一番近い飛行場に緊急着陸し、もう1機は海に墜落。乗員のうち一人を漁師が助けましたが、もう一人は死にました。 もうひとつ、私に辛い思い出は、私の友人であった中内理一等飛行兵曹が終戦の日の11時に出撃しました。その1時間後、終戦の放送があったので引き返すように無線で連絡をしたのに帰って来なかった。彼は平和になった時に死んだのです。21歳でした。 玉音放送前に出撃した中内理一等飛行兵曹 第5航空艦隊宇垣纏司令長官は特攻隊出撃の別れの挨拶の際にはいつもこう言っていました。“いってらっしゃい。必要であれば私も行きます。”他の長官同様、彼は敗戦になることを早くに知りました。しかし、その様な恥ずかしいことを聞くまで生きたいとは思いませんでした。捕虜になった際米軍を喜ばせない為、彼は軍服から階級章をすべて取って中都留操縦士の飛行機に乗り込もうとしましたが、2人乗りの飛行機内に3人は窮屈でした。遠藤兵曹長は最後の攻撃になると分かったので彼も降りたくなかったのです。仕方がないので遠藤は長官の股の間にうずくまって出撃しました。攻撃というよりは死ぬために行ったようなものです。長官が行くなら自分も行きたいと彼に頼んだ隊員が集まって、結局最終的に23人、15日の午前中に出撃したのです」 宇垣纏司令長官「いってらっしゃい。必要であれば私も行きます」   ドマ「日本は負けるといつ気づきましたか」 川野「昭和20年(1945年)4月初めの頃、東京にも空襲がひどくなってきました。私たちは燃料が足りなかったので、少ない飛行機しか出撃できなかったのです。そんな状態の中、ある日空襲にあって防空壕から外の様子を見ていた時、墜落した飛行機から米兵が脱出してパラシュートで海面に落ちました。私たちの弾は足りなかったので、使用制限命令が出ていました。米軍の仲間が水上飛行機で救助に来ました。私たちは弾も撃てずにただじっと見ているだけで何もできませんでした。当時の日本では、一人の命はそこまでする価値はなかったのです」 ドマ「終戦を迎えた時、どのような気持ちでしたか」 川野「私は世界一不運な奴だと思いました。厳しい猛訓練を受け、真面目に励んでいたのに。村の駅で皆が私たちを英雄として見送ってくれました。壮行の歌を歌い、私たちが命を捧げることに村の人は泣いてお礼を言ってくれました。これから私はどうやって皆の目を見ることができようか。“仲間は死んだ。でも自分は帰った。生きている。健康で。戦争で負けた” どうしようもない気持ちでたくさんの人は自殺しました。大西長官(特攻の生みの親)は自分が過ちを犯したと悔やみ、割腹自決をしました。短い刀で自分の腹を切り、12時間前後たった時に駆けつけた医者の手当てさえ断ったそうです」 大西長官「特攻隊の生みの親」 ドマ「戦争で負けて、心の傷は大きかったですか」 川野「何週間も夢遊病者の様に歩きました。けれどもプライドは少し残っていました。それから一度、夜に人気のない焼け野原の道で、日本人の女の人とヤンキーの兵士とがいちゃつきながら散歩をしてました。女の人はアメリカ人の腰に手をまわしていました。私達はこういう女性たちの貞操を守るために前線で血を流したのだ、と思いました。私は負けた後、面子をつぶされた、裏切られた気持ちになりました」 ドマ「戦争の後、どうしましたか」 川野「終戦後、1ヶ月半程度は米軍に武器を引き渡すための手続きなどをして、その後故郷に帰りました。19歳の時です。3人の男の兄弟は無事でした。でも姉2人の夫は亡くなりました。町では食料不足でしたので、ご飯に何でも混ぜた粗末な物しかありませんでしたが、田舎では幸い不自由しませんでした。はじめは家業の農業を手伝い、警察の無線係をやったり、捕鯨用の造船会社で働き、28歳の時に結婚しました。息子2人と娘1人が生まれました。今は孫6人です。3年前、自分の不動産会社を辞め、年金生活になりました」 ドマ「今の飛行機をどう思いますか」 川野「すばらしいですね。戦時中は飛ぶために操縦士と偵察員が協力して飛びました。飛行機の向き、風速など様々なことを計って飛んでいました。今の時代はすべて機械がやってくれます」 当時使用された計測器…

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三船伝説 2

1999年、ベネチア国際映画フェスティバルにて大反響を呼んだのは、「雨あがる」という日本映画だった。この素晴らしい映画は、世界の巨匠黒澤監督がこの世を去ってから一周忌に、彼の残した遺稿に正確に従って製作された。黒澤監督は一つの作品を準備のために数年間費やした。ストーリーを書き、幾度もそれを推敲した。黒澤監督は素晴らしい美術監督として出演者の衣装のみならず、キャラクターも細部にわたってデザインした。どのようなことも偶然に身を任せることはなかった。細かい指示も記された、膨大な量の画コンテ(=絵コンテ)を用意した後、やっと映画を撮り始める。黒澤映画の魔力の秘密は、緻密で完璧であることに由来するのかもしれない。監督が触れたものは、すべてになった。彼の全映画は世界で成功した。「新人の時、巨匠の監督と仕事をした」というだけで、日本映画界においては一番のお墨付きを得た事となる。 映画プロダクションをプロデュースする黒澤の息子である久雄さんと娘の和子さんは、最後の台本から父への追悼の映画を作ることを決めていた。素晴らしい「黒澤組」を再び結集するため、二人は偉大な監督と共に長年働いた旧友とスタッフを招集した。欠けていたのは、偉大な監督だけだった。   「雨あがる」で新しい映画スター三船史郎が生まれた。、コミカルでやんちゃな殿様役で映画ファンのハートをつかんだ。「MIFUNE」の名前は世界では特別な意味がある。日本の人々は、亡くなった伝説の俳優である父の仕事を息子が継承していくことに期待を寄せている。 私は三船史郎さんと長い付き合いがある。物静かで学者タイプ、大変インテリジェントであるにもかかわらず、素晴らしい俳優でもある。通常の芸能界の二世俳優とは異なるタイプの人物だ。しかし、自分のことを彼はどのように語ってくれるだろうか。     <侍の父からのスパルタ教育>   ドマ:史郎さん、あなたのご両親はどのような方でしたか。   史郎:ふたりが恋に落ちた時、父は30才。これからを期待される若手ホープとして活躍していました。母は22才で女優の卵でした。母の家族は母が女優になることには反対でした。ましてや、父との結婚には猛反対していたようです。ふたりは親の反対を押し切って一緒になりました。駆け落ちのような形で東京の世田谷に部屋を借りて住みま始めました。父の両親は戦争で既に亡くなっていましたから、親代わりとして結婚式には、父の俳優仲間である志村喬さんご夫妻が出席してくれました。(志村氏は映画「七人の侍」のリーダー役として有名)志村さんご夫婦は本当の祖父母のように、ずっと私ども家族を見守ってくれました。私は1950年に生まれました。私が生まれてからは母方の家族とも仲直りして、その4年後には弟の武志も生まれました。     三船一家   ドマ:誰もが嫉妬する世界のスターの息子は、どのような子供時代を過ごしましたか。   史郎:私が生まれて次の年に、父がベネチアで「羅生門」という作品でグランプリを受賞し、世界の映画界でも認められました。この頃から良い役をもらい、我が家の経済状態も好転しました。しかし、父があのようにしつけに厳しくなかったら、私たちは幸せな子供時代を過ごすことができたでしょう。でも、映画で最大の力を発揮するため、常に神経の糸を張り詰めて生きていました。家族とともに過ごす時間については、誰も私たちをうらやむ人はいませんでした。父は映画の仕事で毎日忙しく、たまに早く帰ってきた時には、ウイスキー1本を飲んでストレスを発散し、今日撮影したシーンを身振り手振りを交えて家族に再現して見せるのでした。この頃は、父の映画をあまり劇場に観に行きませんでした。怒った侍の迫力は、映画館でよりも我が家だけで十分だったからです。でも、父は有名人とは信じられない、もう一つの顔を持っていました。整理整頓のマニアでした。テーブルに本が斜めに置いてあると、駆け寄ってきてすぐにまっすぐに直したり、床や道にゴミが落ちていると、渋い顔で拾ってゴミ箱に捨てたりと、とても几帳面で潔癖でした。また、大の車好きで、MG-TDというスポーツカーや、英国での撮影のあと、現地でシルバークラウドというロールスロイスを購入しました。当時、日本全国でロールスロイスは2台しかなく、所有していたのは天皇陛下と父だけでした。この車を洗うのは、父しか許されませんでした。履歴書の趣味の項目に「掃除」と書いてある芸能人は、父だけだと思います。でも、家族の良い思い出もあります。1960年に父がメキシコ映画出演が終わった後、家族を世界旅行に連れて行ってくれました。 侍役者と息子たち     <俳優としてのスタート>   ドマ:あなたと映画とのつきあいは、どのように始まったのですか。 史郎:19才のとき、私は生まれ育った街の成城大学経済学部の学生でした。長年、黒澤映画での助監督をしておられた出目正伸監督の「その人は女教師」に主役で出演してくれないかとお誘いを受けました。またやはり同じく黒澤組のアシスタントであった松江陽一さんという方からお話がありました。私はこの時、父親の「俳優」という仕事がどういう物か興味を持っていました。 映画では当時フランスで実際に起こったストーリーを使いました。ある学生が自分の学校の女教師を好きになってしまって苦悩した挙句、自殺に追い込まれてしまうという話です。撮影はベットシーンまでは順調に進みました。しかし、私は非常にシャイで奥手な青年でしたので、演技とはいえども恥ずかしくてたまらなかったです。 当時、父はスタジオに映画のために5頭ほど馬を飼っていました。ですから私は毎日馬たちの世話をしたり、馬に乗ったりしていました。わかります? 馬に乗ると膝の内側の皮膚が剥けた跡がつくのです。大学の馬術部の友人たちが映画を見て、「膝の皮がむけていたのは乗馬ではなく、ベットシーンの撮り直しを何度もしたからだ」などと冷やかすのです。こういうこともあって、映画を撮る興味はなくなりました。 2本目の映画「2人だけの朝」は、既に私の意志は無視され、父から次はこれをやれ、と一方的に決められてしまいました。うちのプロダクションが制作していたので、父の仕事の手伝いになるのであれば、と2本目を引き受けることにしました。 次はカリフォルニア大学(UCLA)の映画科を卒業して、父の海外での仕事を手伝ってくれていた日本人監督を起用して、日米合作映画を作るようにと、言ってきたのです。まだ学生だった私は、撮影可能な2ヶ月間の夏休みだけでは撮影が終わらず、冬休みに再度渡米しなければなりませんでした。当時、私は大学の馬術部のキャプテンでモントリオールオリンピックの馬術の選手として参加したいと思っていたのですが、父から激しく怒られました。親への反抗心で、命令に背いて母の実家にかくまってもらったのです。父は未完成のフィルムを抱えて黒澤監督に持ち込みましたが、監督は首を振り、「三船ちゃん、残念だけどこれだけじゃ映画にできないよ」と言われました。その後も時々カメラの前で仕事をしたことはありましたが、以来28年間、大きなものはありませんでした。   三船敏郎氏、史郎氏、奥様     <人生の学校>   ドマ:なるほど。ではまた、あなたの学生時代の話に戻りましょうか。   史郎:大学卒業後、1972年よりケンブリッジの学校に語学留学しました。その後、父の命令でドイツのミュンヘンにも行きました。この頃、父はサッポロビールのコマーシャルに出演していて、ミュンヘンはよくCM撮影で訪れていました。サッポロはミュンヘンの姉妹都市なのです。そこでさまざまな交流が深まる中、1975年に父はそこに日本料理のレストランをオープンしました。120席、3つの日本間、茶室などがあり、総勢25人のスタッフがいました。そこで私は副支配人、のちに支配人を務めました。初めの1年は毎日14-15時間働き、休みはありませんでした。 8年経って日本に帰りました。1960年代に日本映画が斜陽化すると、私の父と黒澤監督が働いていた東宝は、自社映画の製作を止め、独立プロダクションに発注していました。父も黒澤監督も、ふたりとも自分たちのプロダクションを設立しました。三船プロダクションは最盛期のころは150人のスタッフを抱えていました。その内役者は、43人所属していました。ふたつのステージとオープンセット、常時4本のテレビ時代劇やドラマの撮影が進んでいました。また、人材の補給目的も兼ねて、俳優養成所もありました。父は俳優としては偉大でしたが、会社を経営する事業家としては向いていなかったと思います。人間関係が上手く築けないのです。経営面を他人に任せていたので、いいように利用されてしまいました。 「残る文化」は新しい時代に合わなかったようで、テレビでは若い人たちのニーズに合った陳腐なクイズやバラエティー番組が前面に押し出されてきました。父には私の手伝いが必要だったので、私は日本に帰りました。私が大学で専攻していた経済学とヨーロッパでの8年の経験を駆使しても、もはや手遅れでした。伝統的な日本の映画制作を継続することは政府であればできたかもしれませんが、まず、養成所を閉鎖し、続いて撮影所も閉鎖しました。   三船敏郎氏、映画撮影で ドマ:その後は。   史郎:私は父の仕事やプライベートの面倒をみることに従事しました。父はしだいに年をとり、仕事も難しくなってきました。健康を害してからは、母や家族の者たちで父を看病しました。父にとっても、この時期は母との平和なひとときを取り戻したようで穏やかな日々でしたが、それも長くは続かず、入院しました。1995年に母が亡くなり、その2年後、父も母の所へ逝きました。今、私は父の作った三船プロダクションを維持・存続させていくことが仕事となりました。     <俳優自己発見>   ドマ:お父様が亡くなられた後、そのときあなたは俳優になりたくないとお話くださいました。その1年半後、私に「雨あがる」の撮影をしていると教えてくれました。そのときの様子は今までにないほど幸せそうでした。三船史郎48才、自己を発見した、ということでしょうか。   史郎:俳優になりたくないと真剣に考えました。父の背中をずっと見てきたので、俳優であるという人生がいかに大変であるかを分かっていたので。   ドマ:映画で以前よりもっと魅力のある役柄をもらったのですか。   史郎:父が亡くなったあと10ヶ月して、黒澤監督も亡くなられました。黒澤監督は父を世界のスターに育ててくれた恩人です。監督のご子息黒澤久雄さんや、お嬢さんの和子さんは、子供のころから仲良しです。監督の家族や昔からの黒澤組のスタッフの皆さんから、監督の遺言を実行するために最後の映画を作りましょう、と私にも声をかけて下さったのです。しかし、私はこの重責をはたしてこなせるか、全く経験や実績のない私にはとても不安でしたが、自分を信じて出演を決意しました、   「雨あがる」撮影(中央の殿様役が三船史郎氏)  …

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Doma-Mikó István:日本映画史上において (A Mifune legenda)

(A japán irásjelek megjelenitéséhez töltse le a japán nyelvi csomagot!) 1997年クリスマスイブ、東京三鷹の病院で、骨までやせた77才の男が死にかけていた。ベッドのまわりには近親者のみが見守っていた。二人の息子、すでに亡くなった親友の妻、主治医。男は頭を持ち上げて苦しそうだが毅然とした顔で何かを言いたげだったが」、もう力は残されていなかった。枕に頭を落とし、目の焦点が止まり、凍結した目から涙が一粒、玉のようにこぼれ落ちた。その数時間後、マスコミは日本映画史上において最も偉大な俳優であり、ベテラン映画製作者でもある三船敏郎が亡くなった、と全世界に報じた。ハンガリーでは脇役としての「将軍」シリーズや、ほかの多くの映画の主人公(七人の侍など)で知られていた。全ての映画評論家は異口同音に、この島国の歴史においてこれまで三船のような傑出した才能の持ち主は現れなかったし、今後も二度と現れないだろう、と語った。私は三船敏郎が亡くなった知らせを東京の自宅で知り、衝撃を受けた。素晴らしい俳優、素晴らしい人だった。彼の名前を私は9歳のときに、クリスマスプレゼントにもらった映画百科本の中で知った。日本の俳優として名前はたった一人、三船だけだった。社会主義体制下での当時のハンガリーでは、文化政策の網により、許可されていた日本映画は3本のみであった。「ハラキリ」と「裸の島」、そして「七人の侍」である。そのうちの3つ目にあげたものを私は10回以上も繰り返し観賞した。黒澤・三船コンビによるこの作品についてはたった1回くらいではとても物足らず、何回でも見たいという欲求に駆られたのである。 やがてこの東洋の国は、私の二番目のふるさとになる、そしてこの名作を吹き替えなしで見ることができるようになるとは、夢にも思っていなかった。そして最初の白黒の三船映画を見た後、40年近くの年月が過ぎ去り、私と三船が顔を合わせることができる幸運に恵まれた。巨匠に会うことができたのだ!! <スターのほんとうの顔> 1991年、私がオーナーとして設立したハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」にインタビュー記事を掲載するため、この巨匠と会った。彼の長男でありマネージャーでもある史郎氏に相談したところ、数日後に東京のデラックスホテルのメインホールにマスコミとテレビの人間たちの中に私ははさまれていた。 史郎氏は父の記者会見のあと巨匠との時間を割いてくれる約束をした。そして三船にインタビューをする時間を得ることができた。 他の共演者やスタッフとともに金屏風の前に座った三船はたくさんのテレビカメラやフラッシュを浴びていたが、リラックスした状態で対応していた。彼は例の鋭い視線でホテルのメインホール内を見渡した。そして視線が止まったとき、それを浴びた記者は怯えてしまっていた。彼が話すとき、あたかも雷鳴が轟くかのような太く低い声が響きわたった。声があまりに大きいので、まるで怒っているかのようであったが、それは三船にとってはただのごく普通の話し方だった。 記者たちの集団が会場から吐き出されるように飛び出してきて、私は三船のとなりにたどり着くために奮闘した。やっとの思いで廊下で彼をつかまえて、「三船さん!」と後ろから声をかけると、その声をかけられた三船さんは私の後ろのほうを探した。私たちは笑ってしった。外国人が日本語を話すという事実はただ事ではなかった。史郎さんによる紹介の後、私たちは会話のために移動した。他のスターたちは鼻が高く自分自身を誇張・誇大化し、回りの人間たちもそれに同調していた。しかし、三船は他とはまるで違っていた。彼の個性からにじみ出る簡素な自然の心で、暖かくありのままに人と同じ目線で駆け引きなしで接した。将軍から発せられるオーラにより、会って数分で人はだれでも彼のことを好きになってしまう。私とも昔からの友人かの如く話をしてくれた。そして、私の腕をもって出演した作品の中でのシーンを冗談っぽく大声で笑いながら少し再現してくれた。彼が話してくれた内容を<将軍三船 スーパースター>という記事で紹介しよう。 <将軍三船 スーパースター> 日本で大スターと呼ばれ、その名は世界の映画界でも通用しており、孤独な正義の人、勝利を誇る将軍、三船敏郎は日本武士の現代の語り部といえそうだ。 この俳優の存在は、鎧、剣をもたず、口髭をたくわえず私服のままでも、かなり恐ろしい。微笑を浮かべていても黒い目は射るように光り、鋭い声は隣室の人々を震えさせる。 ベネチア映画祭では3回グランプリとアカデミー賞をとり、主演男優賞も2回とった。またモントリオール、ニューヨーク、ベルリン、ロンドン、モスクワ、リスボンでも賞を得ている。ロスアンジェルスのカリフォニア大学では名誉教授の称号を与えられた。 本誌-三船敏郎さんが世界のスターになった成功の秘密を教えていただけますか? 三船-多少、冗談めいた話ですが、変化に富んだ人生と若干の誤解のおかげですかね。 変化に富んだ人生は今日の中国で始まり、誤解は東京で起こったことです。 本誌-という事は貴方は日の出を初めて見たのは日出る国ではないということですね。 三船-父は日本で医者を志していましたが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたのです。ですから私は中国のチンタオで1920年に生まれました。鼻たれ小僧の頃から、払は父の手伝いをしていましたが、呑気な生活は長く続かず、20才の時、満州軍の歩兵隊に入隊しました。 本誌-中国での軍隊は将軍、武士にとって良い学校でしたか? 三船-信じられない非情な条件の中で生活しました。掌は土方のように厚く、タコができました。武士の歴史には善が悪に向かって闘うという意義がありましたが、あの戦争は無益な殺戮でした。 本誌-どうして中国から日本へもどったのでしょうか? 三船-1946年に銃を捨て、父の生地で新しい生活を始めようと決心しました.両親はすでに亡くなっていましたし、親類のことは知りませんでしたので、一日中東京の町を歩いていました。ある時、急に思い付いたように、当時一番大きかった映画会社の東宝へ行って、撮影の見習いにして欲しいと申し出たのです。 本誌-この時、人生最大の誤解がおこったのですね?。 三船-ええそうです、私の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、私は審査員の前に引き出されたのです。私は変更のことなどちっとも知りませんでしたから、審査員が笑って見て下さい、と指示した時にはびっくりしましたね。困っている私をからかって馬鹿にしているのだと思い、怒り狂った酋長のような口調でマイクロフォンを通してお偉方に話しかけました。審査員全てがどれほど仰天したか言うまでもないでしょう。ただ映画監督のある人だけが喜んで、 ”こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう”と言い、”まったく野蛮な奴だ”と他の人から抗議もされましたが、”いつか野蛮な役をやらせればいいさ…”と反論したのです。 本誌-俳優としての最初のデビューはどうでしたか? 三船-まだ私自身、軍隊の粗野な部分が残っていまして、若い盗賊の役でしたが私のために書かれた役という感じでしたね。 本誌-その後、黒沢監督と運命的な出会いをしたのですね。お互いに仕事はうまくいきましたか? 三船-そうですね、18年間、監督のいろんな映画で主役をやらせてもらいましたね。『用心棒』『7人の侍』『羅生門』『赤ひげ』ドストエフスキー原作の『白痴』などは思い出深い作品です。また数多くの映画祭で賞も取らせてもらいましたから、お互いに実りある仕事ができたと思います。 本誌-映画史に残る作品『7人の侍』はハンガリーでも大評判でした。40年後を振り返ってみて、若い頃のご白身の演技をどう評価していますか。 三船-あの頃、目茶苦茶に走ったり、どなったりする自分を見ていると少し恥ずかしいですが、もらった役柄ですからしょうがないですね。百姓の若者を演じたのですか、孤児になって盗賊に立ち向かう侍の一団に加わり、正義のために命をかける役でした。本当は侍は6人だったのです。威勢の良すぎる私は侍として認められていませんでした。(笑) 本誌-1980年のノーベル賞作家のジェイムス・クラヴェルの作品から日米合作で、『将軍』という映画が作られましたが、これは世界中で評判になりましたね。このエミイ賞受賞作品の中で、貴方は日本の武士の威厳に満ちた格調高い演技を見せてくれました。その後も将軍の役には必ず貴方が指名されると伺っています。 最近では数多くの海外の作品にも出られているようですが、外国人との共演についてはどう思われますか? 三船-確かに、合作が多くなりましたが、私のほうからではなく、あちらのほうから出演依頼をしてくることが大半です。 本誌-ということはハンガリーでの映画制作も考えられるわけですか? 三船-もちろんです。ハンガリーラプソディーの国には関心を待っていますし、アジア系の民族ですから親近感を感じています。 本誌-最後にハンガリーの人達にメッセージをいただけますか? 三船-豊かな国を築かれることを願っています。またそのために諦めずにがんばってください。 本誌-どうもありがとうございました。私たちもあなたの成功を祈っております。また、あなたの映画を見たいと思っております。 <最後の6年> 三船家とのつきあいはそれからも続いている。三船氏は私が東京で主催したハンガリー宮廷料理パーティーの発起人になった。また息子の史郎氏は、ハンガリー日本博物館の発起人になった。鋭利な目を持つこの侍のここ6年のことについて、彼に話を伺う。 史郎―「1993年で大変感謝するべきことに、天皇陛下より勲章(勲三等瑞宝章)を授かりました。これはアラスカ映画「狼の影」に出演してすぐのことでした。この映画の役どころは、エスキモーの村長でした。外は零下10~20度の凍りつくような寒さの中での撮影でしたが、このころから体調が思わしくありませんでした。それから暑いハワイに行き、娯楽映画「ピクチャーブライド」に出演しました。父の役どころは旅をしながら人々に娯楽を提供する映画弁士というものでした。大正時代に多くの日本人がハワイのさとうきび畑を耕すために50人で集団移住したというストーリーの映画です。それから私たちの危機は1995年に来ました。それまで父の面倒を見るといっていた母が亡くなり、我が家は悲しみにくれました。この年、父は遺作となった映画「深い川」に出演しました。父はやせてきました。仕事の途中でよく気分が悪くなりましたが、彼の中で自分自身を取り戻すために莫大なエネルギーが消耗されました。その頃、彼と私は撮影所と病院のあいだを頻繁に往復しました。そして容態が悪化し、とうとう入院しました。それから後、外には2度と出ることはありませんでした。数ヵ月後、父は多臓器不全で亡くなりました。父の部屋は今でも生前のままの状態です。戦争時には飛行機に搭乗し、空撮写真家の役目を負っていました。飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートが最後のままの状態にあり、その他、古いいろんな物が残りました。あとでこれら遺品の数々を見て彼のことを偲ぶことができる資料館のようなものを作ろうと思っています。」 <レクイエム> 芸術家の運命は過酷である。 亡くなって初めてその空虚感からその芸術家の偉大さを改めて認識させられることがある。 三船は時代劇および映画製作者を守るため映画プロダクション・俳優学校を創設しました。この偉大なる志を達成するには、天才三船の手ひとつではあまりに大き過ぎた。1998年1月24日、青山葬儀場前には偉大な彼に敬意を払うため、映画評論家たち、親交の深かった映画関係者ら何百人もが弔問に訪れた。地方からもファンらが多数、背中が丸くなったお年寄り、リュックを背負った若者までヘビのように連なる行列をなす何百人もの人々が白いカーネーションを今は亡き俳優の大きな遺影に捧げた。集まった人々に、黒澤監督のメッセージが読み上げられた。 「三船君の訃報を聞いて驚いています。具合が悪いと聞いていたので、三船君に会いたくてずっと気になっていた。会って、本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。私が葬儀委員長を引き受けて、三船君らしく華やかに天国に送り出したい思いなのだが足腰を痛めて表に出られないので残念だ。急だったので、色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。黒澤明」 三船敏郎:144本の映画に出演し(うち126本主演)日本の映画界に50年に亘って貢献した。 Dom-Mikó István Inter Japán Magazin

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Doma-Mikó István: ラスト・サムライ (Az utolsó szamuráj)

(A japán írásjelek megjelenítéséhez töltse le a japán nyelvi csomagot! To display Japanese characters, plase install the Japanese language pack!) 侍(サムライ)は日本の武士階級とこの階級に属する人を表す言葉です。侍は、中世の日本、10世紀の平安時代に出現しました。当時、日本の幕府(将軍が統制する軍事政権の組織体系)が完成しました。この組織体系のもとでは、天皇が最も位が高く、その後に、大名、将軍、侍、農民、職人、商人と続きます。この時代では、刀や他のいかなる武器でも所持することは、侍や高い身分の人だけの特権でした。身分の低い人が許可なく武器を持ち歩けば、すぐに打ち首にされました。 侍は塾や道場にて、武道の知識、武器の使い方、戦い方を習得しました。彼らは、武器を扱う知識や技能に応じて俸給を得ていました。侍はある程度気楽に生活していたと思うかもしれませんが、本当の武士としての生活は、かなり不安定な状況でした。将軍は、政権を得たいがために、頻繁に天皇や大名との戦いを繰り返し、そして、権力と領地を得たいが故に、他の将軍と戦いました。他の将軍との戦いに負けた将軍は、自分の領地を失いました。侍は、主人である将軍を守るために、彼らの元で軍部隊を組織しましたが、自分たちを守るためにも戦いました。侍が戦いに負けて、何とか生き残ることができたとしても、彼らは主人である将軍を失い、浪人(浪士)となりました。浪人は多くの場合、生き残るために、町から町へ旅する裕福な商人の一団を襲う強盗となり果てました。 しかし、名誉ある侍たちの物語は不朽の伝説となり、多くの日本の映画では、侍が英雄的人物となりました。侍は、勇敢で、寛大で、忠実で、無欲です。二人の有名な俳優、三船敏郎と萬屋錦之介は、多くの映画で侍として主演しましたが、彼らはその後、亡くなりました。現在、藤岡弘、は、日本で最も偉大な侍の俳優であり、ラスト・サムライとして知られています。 15年前、私はこの伝説的な俳優に直接会う機会がありました。私たちは東京で、催し物のために一緒にステージに立ちました。彼の演武は、その夜のメインプログラムでした。 照明を落とした舞台の上で、ラスト・サムライは静かに座りました。一つの照明だけが灯り、彼を照らし出し、彼は目を伏せ、瞑想しているようでした。そして、鞘に入れた刀に手を置きました。音楽が徐々に盛り上がり、その英雄の魂の中にある強い感情を表現する語り手の声が、劇場内に響き渡りました。観客は、緊張感で微動だにしませんでした。そして、辺りが静まり返った瞬間、突然、そのサムライは刀をつかみ、鞘から刀を抜きました。その次の出来事は一瞬のうちにおこったのです。サムライは勇ましく叫んだ瞬間、目の前にあった巻き藁を真っ二つに切り落としました。そして、すばやく後ろを向いて、他の巻き藁を切り落とし、さらに、バックハンドで残りの巻き藁を切り落としました。彼は、神秘的な蝶の舞のように、複雑な連続した動きで、背後にあった竹の束を刀で小さな破片になるまで細かく切りました。彼は刀を鞘に納めましたが、彼の演武の余韻はまだ残っています。竹の破片はまだ宙を舞っていて、塵が立ち昇り、劇場には彼の雄叫びが響き渡りました。そして、突然沈黙し、そのサムライは、静かに座り頭を深く下げ、床に手をつき深々と礼をしました。そして、お辞儀をし、観客を魅了しました。観客は彼の演武で、興奮して、拍手喝采の嵐でした。その場にいた証として、感動でうち震えた空間だけを残し、サムライは姿を消しました。 それ以来、私はこの鉄の男と良い友好関係を持っています。いつもお互い絶えず活動しているので、世界の違う場所からお互いに電話し合っています。しかし、私は彼の出演映画をよく知っていますが、彼という人間を表現するには、ただの良い俳優というだけでは物足りません。彼は、非常に親切で、好意的で、傑出している人物なのです。一度、私は、彼をハンガリーに招待しようと計画しましたが、何かを計画することと計画を実行することは、残念ながら同じことではありません。というのは、私の計画は、あともう少しでうまくはずだったのです。それで、彼をハンガリーに紹介することができなかった埋め合わせに、このインタビューをすることに決めました。 先生、あなたの演武を初めて見た時、あるテレビコマーシャルを思い出しました。日本刀の刃先の上にすごく薄い絹のスカーフがゆっくり落ちてきて2つに切れたのです。日本刀はスカーフのようなすごく軽いものでも十分切れて、剃刀と同じくらいによく切れる。そういった話は本当ですか。教えてください。 私は間違いなく日本刀が世界の武器の中で一番鋭いものだと思っています。でも落ちてきた絹のスカーフを切ることはできないのではないでしょうか。そのコマーシャルの場面は、日本刀の鋭さを強調するために、特殊な映像テクニックを使ったのではないかと思います。世界で最もえり抜きの刀工が作ることができる刀の中で、最も鋭い刀でさえ、何かを切るには「引く」という動作が必要です。実際に、切断したいものの表面を横切るように刀の刃先を動かさないと切れません。もしがっかりさせてしまったらすみません。 あなたがお持ちの刀には何か物語がありますか。 私は何本か刀を持っていますが、確かにそれぞれにまつわる話がありますね。しかし、ある一本の刀は、特別に重い歴史を背負っていると感じています。その刀は私の大昔の先祖の一人から受け継いだものですが、100年以上前のもので、グリップに我が家の家紋が刻まれています。私の先祖はこの刀でいくつもの戦いで敵を討ってきました。代々、この刀の所有者は、自分自身だけでなく子孫も守るためにこの刀を持っていたのです。ですので、この刀を手に持っている時はいつも、この刀に込められた深いかなりの重さを感じます。 あなたの刀はどれくらいよく切れますか。今までにその刀で誰かを切ったことはありますか。 何万片もの竹や木、巻き藁を切りましたが、私は私の刀で生命に傷を付けたことは一度もありません。他には、鉄の塊を切ったこともあります。その時は特別な種類の刀を使いましたが。 若い頃の話をして頂けますか。 私は1946年2月19日に四国の愛媛県で生まれました。 私の父・喜市は、警察で柔道を教えていました。私の母は茶道と華道の先生で、多才な女性でした。母は、日本の伝統的な弦をはじく楽器の三味線と琴も教え、みごとな刺繍もし、料理も上手でした。母は、日本の多くの若い女性に深い影響を与えました。私は母が男性の侍に匹敵するくらいりっぱな女性だと思います。 誰が武道を伝授してくれたのですか。 私の父は、武道に精通していて、人の命を奪うためのあらゆる技法を心得ていました。父は教え子に、剣道における竹刀の使い方、ナイフの投げ方、教えるのが禁じられているようなテクニックまでも教えていました。(※以前の文章では「禁じられたテクニックも知っていた」という内容でした。) 禁じられた技法でも、お父上はあなたに伝授したのですね。 日本の伝統に倣うと、本来は、長男であった私の兄が父から武術を継承するはずでした。父がなぜ兄の代わりに私に伝授したのか未だにわかりません。父の教え、いやむしろ父の「訓練」は、辛くて厳しいものでした。日本の武道は裸足で練習するため、怪我をしやすいので、通常は、畳と板張りの床である道場で習います。しかし、父は、床が石の神社、地面が小石や砂だらけの境内で私を訓練しました。私は地面に倒れるだけで、何度も怪我をしました。父は何度も繰り返し訓練することで、私にどのように生き抜くかを教えてくれました。それは私にとってかけがえのないものとなりました。 お母様はお父上の非常に厳格な訓練方法に反対しましたか。 父は確かに厳しい人でしたが、その厳しさの中にはいつも愛がありました。育てようとする愛を持っていた母には父への深い理解がありましたので、母は父に決して反対したりはしませんでした。でも、一度母に非常に厳しく叱られたことがあります。詳しく説明するために、私の小さい頃の話をする必要がありますね。 小さい頃、私はいつもいじめの標的でした。私より年上の子供たちがいつも私をからかってきて、時々暴力をふるってきました。その時はそれほどひどいいじめではありませんでしたので、私は静かに悲しみや怒りを隠しながら耐えようとしました。しかし、ある時、彼らがあまりに深く私のプライドを傷つけたので、私は彼らに対して武道の技を使ってしまいました。それで、少年の一人が重傷を負ってしまいました。このケンカの事実を母が知った時、母は激怒しました。母は、「私はご先祖様に顔向けできません。あなたがしたことは大きな恥です。もう一度こんなことをしたら、私はあなたを殺して、私も死にます。」と言いました。なぜ暴力をふるってしまったかを説明しようと口を開こうとした時、母は、「ならぬものはならぬ。言い訳はゆるしません。」と言い、母の声は怒りでいっぱいでした。私はショックを受けましたが、この状況がいかに深刻かが分かりました。私は心の底から謝りました。そして、ご先祖様に謝るために、決して憎しみで武道を使わないことを誓わせるために、母は私をご先祖様のお墓の前に連れて行きました。それ以来、私は間違った方法で武道を使うことがどれくらい恐ろしいことかを意識するようになりました。そして、暴力に訴えずに勝つ方法を探し求めました。 日本人にとって、武道を行うことはどのような意味がありますか。 最近、武道はよくスポーツとみなされます。しかし、武道の本当の意味は、日本語で「武道」と言われるように、自分自身をコントロールする「道(方向・方法)」を示しています。もし、「武道」の「道(方向・方法)」が間違って使われたら、誰かを傷つけたり、殺すこともできてしまいます。日本では、「自分自身を制する者は心の中にどんなためらいもない。侍の「道」は、倒した相手に敬意を払い、他を許すことを忘れない。」という言葉があります。私は、日本人が心の中にこの言葉を持ち続けてくれることを願っています。 あなたの出演映画では、あなたが様々な乗り物を運転・操縦しているのを見ますが、陸上、水上、さらに空でも操縦できるというのは本当ですか。 大型自動二輪免許、大型特殊自動車免許、自家用飛行機免許も持っています。スキューバダイビングのライセンスも持っています。 お芝居の話に戻りましょう。藤岡弘、はどのようにして有名なスターになりましたか。 1971年に、私は「仮面ライダー」シリーズで一躍人気者となりました。仮面ライダーはアクションがすごいので、子供たちにとても人気がありました。本郷猛が改造人間だという特別な設定だけでなく、スタントマンなしでバイクアクションや格闘、高い所からのジャンプなど危険なアクションを自分でこなしたという現実的な要素もありました。おそらく、それで、仮面ライダーはこれだけの人気が出たのでしょう。私の名前は急速に知れ渡ることとなりました。 俳優としての幸運」はどれくらい続きましたか。 このシリーズの10話目の撮影の時でした。この回の撮影の時に、私は大きなバイク事故を起こしてしまい、左足を複雑骨折してしまったのです。当然、私は非常に動揺していました。俳優としての命はもう終わってしまったと思いました。周りの人も同じように思っていました。でも、私は志を捨てず、非常に困難な大手術を乗り越え、長期リハビリを経て、その事故から奇跡の回復をし、6ヶ月後にスクリーンに戻りました。私の左足には今でも体の一部として、金属の留め具が残っています。 この後、あなたは後世に残る映画作品にも出演し始めました。あなたが成功を収めた中で何が一番重要なものだと思いますか。 幸運にも、私はいつも英雄、良い人の役をいただきました。もちろん、批判とも闘わなければいけません。1984年に、私はハリウッドでSF映画「SFソードキル」の撮影に挑みました。私は、台本はもちろん、仲間の俳優たちも、侍を理由もなしに誰でも殺すただの殺し屋のように考えていると感じました。彼らは私を軽視しているような感じで、そのうちの一人が「ヘイ、ジャップ」とまで言ってきたのです。でも、私は彼らが私に対して何を思っても気にしませんでした。私は、侍の世界の本質は精神性だと思います。 私の成功の別の理由は、重要な歴史上の人物の役をいただいたということだと思います。私は、織田信長を演じました。新しい社会のシステムを作った最も重要な侍の一人である坂本龍馬も演じ、侍シリーズ「それからの武蔵」の柳生十兵衛も演じました。 あなたは非常に多才であるという定評があります。藤岡弘、はいくつの顔を持っているのでしょうか。 第一に、私は俳優であり、映像、また、映画を作っていきます。第二に、私は武道家として、失われつつある武士道精神と日本の伝統を守っていこうと取り組んでいます。第三に世界中をボランティア活動で訪ねる中、救済活動と主に、武道・文化公演もしております。また、10カ国以上の政治的に不安定な国にも行き、大変な時期のコソボ難民のキャンプにも行きました。 数年前に、あなたは探検隊を率いてジャングルに行きましたが、それほど危険ではありませんでしたか。 ジャングルは、肉食動物、毒ヘビ、毒蜘蛛等、危険な状況でいっぱいでした。時々、私たちは、本当に恐ろしい鳴き声や、音を聞きました。ほっと落ち着く間も、ありませんでした。日中も危険ですが、夜はテントの中にいると襲われやすいのでもっと危険でした。私の探検隊の隊員の一人は毒をもったサソリに刺されて、別の隊員はマラリアにかかり、もう一人は、非常に高い熱を出して2日間意識を失いました。私は隊長として、隊員と撮影班の身の安全に責任がありました。そして、さらに、必ず撮影を成功させなければなりませんでした。いつも死が隣り合わせだと感じましたが、皆を生きて帰らせなければなりませんでした。かなり真剣で、緊張した時間だったと想像できるでしょう。 悲劇的な出来事は全くなかったのでしょうか? 悲惨ではなくて、むしろほんの少し滑稽な出来事。私は、ある街にふと買い物をしに出かけました。ジャングルの旅から戻って、そんなに時間が経っていなかったのですが、先ほど話したように、ジャングルでは多くの危険にさらされていたので、危機センサーが鋭くなっていて、私は周囲に対して、自分の五感の危機センサーが敏感になっていました。デパートで歩いていたら、私は張り詰めた空気を感じました。数人の警備員が私を追いかけてきました。私は一体何が起こったのか、把握するまでに時間がかかりました。私の醸し出していた雰囲気で、彼らは危険を感じたのです。彼らは私が危険な犯罪者であると思って、私を取り囲んだのでした。状況が分かるとすぐに私は落ち着きを取り戻し、緊張感をゆるめて、警備員の一人に向って微笑みました。すると、すべての警備員がリラックスして、再びデパートは平和な空気で満たされました。 日本にいる時は、私は状況に応じて、五感を研ぎ澄まして周囲に気をはりめぐらせるべきか、リラックスすべきかが分かるので、私が醸し出す空気を無意識のうちにコントロールできます。しかし、遠くにいる時は、いつも周囲に対して敏感になっているので、危機センサーが鋭く敏感になって、私が発する雰囲気が、まるで戦場にいる時のような緊張したものになっているのです。警備員に追いかけられたこの経験から、私は自分自身をより意識するようになりました。そして、自分自身についてまだ知らない部分が多いこと、鍛える部分があることを悟りました。…

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