Doma-Mikó István:日本映画史上において (A Mifune legenda)

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Mifune Toshiro
1997年クリスマスイブ、東京三鷹の病院で、骨までやせた77才の男が死にかけていた。ベッドのまわりには近親者のみが見守っていた。二人の息子、すでに亡くなった親友の妻、主治医。男は頭を持ち上げて苦しそうだが毅然とした顔で何かを言いたげだったが」、もう力は残されていなかった。枕に頭を落とし、目の焦点が止まり、凍結した目から涙が一粒、玉のようにこぼれ落ちた。その数時間後、マスコミは日本映画史上において最も偉大な俳優であり、ベテラン映画製作者でもある三船敏郎が亡くなった、と全世界に報じた。ハンガリーでは脇役としての「将軍」シリーズや、ほかの多くの映画の主人公(七人の侍など)で知られていた。全ての映画評論家は異口同音に、この島国の歴史においてこれまで三船のような傑出した才能の持ち主は現れなかったし、今後も二度と現れないだろう、と語った。私は三船敏郎が亡くなった知らせを東京の自宅で知り、衝撃を受けた。素晴らしい俳優、素晴らしい人だった。彼の名前を私は9歳のときに、クリスマスプレゼントにもらった映画百科本の中で知った。日本の俳優として名前はたった一人、三船だけだった。社会主義体制下での当時のハンガリーでは、文化政策の網により、許可されていた日本映画は3本のみであった。「ハラキリ」と「裸の島」、そして「七人の侍」である。そのうちの3つ目にあげたものを私は10回以上も繰り返し観賞した。黒澤・三船コンビによるこの作品についてはたった1回くらいではとても物足らず、何回でも見たいという欲求に駆られたのである。 やがてこの東洋の国は、私の二番目のふるさとになる、そしてこの名作を吹き替えなしで見ることができるようになるとは、夢にも思っていなかった。そして最初の白黒の三船映画を見た後、40年近くの年月が過ぎ去り、私と三船が顔を合わせることができる幸運に恵まれた。巨匠に会うことができたのだ!!
Mifune Toshiro
<スターのほんとうの顔>
1991年、私がオーナーとして設立したハンガリー語雑誌「インタージャパンマガジン」にインタビュー記事を掲載するため、この巨匠と会った。彼の長男でありマネージャーでもある史郎氏に相談したところ、数日後に東京のデラックスホテルのメインホールにマスコミとテレビの人間たちの中に私ははさまれていた。
史郎氏は父の記者会見のあと巨匠との時間を割いてくれる約束をした。そして三船にインタビューをする時間を得ることができた。
他の共演者やスタッフとともに金屏風の前に座った三船はたくさんのテレビカメラやフラッシュを浴びていたが、リラックスした状態で対応していた。彼は例の鋭い視線でホテルのメインホール内を見渡した。そして視線が止まったとき、それを浴びた記者は怯えてしまっていた。彼が話すとき、あたかも雷鳴が轟くかのような太く低い声が響きわたった。声があまりに大きいので、まるで怒っているかのようであったが、それは三船にとってはただのごく普通の話し方だった。
記者たちの集団が会場から吐き出されるように飛び出してきて、私は三船のとなりにたどり着くために奮闘した。やっとの思いで廊下で彼をつかまえて、「三船さん!」と後ろから声をかけると、その声をかけられた三船さんは私の後ろのほうを探した。私たちは笑ってしった。外国人が日本語を話すという事実はただ事ではなかった。史郎さんによる紹介の後、私たちは会話のために移動した。他のスターたちは鼻が高く自分自身を誇張・誇大化し、回りの人間たちもそれに同調していた。しかし、三船は他とはまるで違っていた。彼の個性からにじみ出る簡素な自然の心で、暖かくありのままに人と同じ目線で駆け引きなしで接した。将軍から発せられるオーラにより、会って数分で人はだれでも彼のことを好きになってしまう。私とも昔からの友人かの如く話をしてくれた。そして、私の腕をもって出演した作品の中でのシーンを冗談っぽく大声で笑いながら少し再現してくれた。彼が話してくれた内容を<将軍三船 スーパースター>という記事で紹介しよう。
Mifune Toshiro
<将軍三船 スーパースター>
日本で大スターと呼ばれ、その名は世界の映画界でも通用しており、孤独な正義の人、勝利を誇る将軍、三船敏郎は日本武士の現代の語り部といえそうだ。
この俳優の存在は、鎧、剣をもたず、口髭をたくわえず私服のままでも、かなり恐ろしい。微笑を浮かべていても黒い目は射るように光り、鋭い声は隣室の人々を震えさせる。
ベネチア映画祭では3回グランプリとアカデミー賞をとり、主演男優賞も2回とった。またモントリオール、ニューヨーク、ベルリン、ロンドン、モスクワ、リスボンでも賞を得ている。ロスアンジェルスのカリフォニア大学では名誉教授の称号を与えられた。
本誌-三船敏郎さんが世界のスターになった成功の秘密を教えていただけますか?
三船-多少、冗談めいた話ですが、変化に富んだ人生と若干の誤解のおかげですかね。
変化に富んだ人生は今日の中国で始まり、誤解は東京で起こったことです。
本誌-という事は貴方は日の出を初めて見たのは日出る国ではないということですね。
三船-父は日本で医者を志していましたが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたのです。ですから私は中国のチンタオで1920年に生まれました。鼻たれ小僧の頃から、払は父の手伝いをしていましたが、呑気な生活は長く続かず、20才の時、満州軍の歩兵隊に入隊しました。
本誌-中国での軍隊は将軍、武士にとって良い学校でしたか?
三船-信じられない非情な条件の中で生活しました。掌は土方のように厚く、タコができました。武士の歴史には善が悪に向かって闘うという意義がありましたが、あの戦争は無益な殺戮でした。
本誌-どうして中国から日本へもどったのでしょうか?
三船-1946年に銃を捨て、父の生地で新しい生活を始めようと決心しました.両親はすでに亡くなっていましたし、親類のことは知りませんでしたので、一日中東京の町を歩いていました。ある時、急に思い付いたように、当時一番大きかった映画会社の東宝へ行って、撮影の見習いにして欲しいと申し出たのです。
本誌-この時、人生最大の誤解がおこったのですね?。
三船-ええそうです、私の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、私は審査員の前に引き出されたのです。私は変更のことなどちっとも知りませんでしたから、審査員が笑って見て下さい、と指示した時にはびっくりしましたね。困っている私をからかって馬鹿にしているのだと思い、怒り狂った酋長のような口調でマイクロフォンを通してお偉方に話しかけました。審査員全てがどれほど仰天したか言うまでもないでしょう。ただ映画監督のある人だけが喜んで、
”こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう”と言い、”まったく野蛮な奴だ”と他の人から抗議もされましたが、”いつか野蛮な役をやらせればいいさ…”と反論したのです。
本誌-俳優としての最初のデビューはどうでしたか?
三船-まだ私自身、軍隊の粗野な部分が残っていまして、若い盗賊の役でしたが私のために書かれた役という感じでしたね。
本誌-その後、黒沢監督と運命的な出会いをしたのですね。お互いに仕事はうまくいきましたか?
三船-そうですね、18年間、監督のいろんな映画で主役をやらせてもらいましたね。『用心棒』『7人の侍』『羅生門』『赤ひげ』ドストエフスキー原作の『白痴』などは思い出深い作品です。また数多くの映画祭で賞も取らせてもらいましたから、お互いに実りある仕事ができたと思います。
本誌-映画史に残る作品『7人の侍』はハンガリーでも大評判でした。40年後を振り返ってみて、若い頃のご白身の演技をどう評価していますか。
三船-あの頃、目茶苦茶に走ったり、どなったりする自分を見ていると少し恥ずかしいですが、もらった役柄ですからしょうがないですね。百姓の若者を演じたのですか、孤児になって盗賊に立ち向かう侍の一団に加わり、正義のために命をかける役でした。本当は侍は6人だったのです。威勢の良すぎる私は侍として認められていませんでした。(笑)

Mifune Toshiro

本誌-1980年のノーベル賞作家のジェイムス・クラヴェルの作品から日米合作で、『将軍』という映画が作られましたが、これは世界中で評判になりましたね。このエミイ賞受賞作品の中で、貴方は日本の武士の威厳に満ちた格調高い演技を見せてくれました。その後も将軍の役には必ず貴方が指名されると伺っています。
最近では数多くの海外の作品にも出られているようですが、外国人との共演についてはどう思われますか?
三船-確かに、合作が多くなりましたが、私のほうからではなく、あちらのほうから出演依頼をしてくることが大半です。
本誌-ということはハンガリーでの映画制作も考えられるわけですか?
三船-もちろんです。ハンガリーラプソディーの国には関心を待っていますし、アジア系の民族ですから親近感を感じています。
本誌-最後にハンガリーの人達にメッセージをいただけますか?
三船-豊かな国を築かれることを願っています。またそのために諦めずにがんばってください。
本誌-どうもありがとうございました。私たちもあなたの成功を祈っております。また、あなたの映画を見たいと思っております。
<最後の6年>
三船家とのつきあいはそれからも続いている。三船氏は私が東京で主催したハンガリー宮廷料理パーティーの発起人になった。また息子の史郎氏は、ハンガリー日本博物館の発起人になった。鋭利な目を持つこの侍のここ6年のことについて、彼に話を伺う。
史郎―「1993年で大変感謝するべきことに、天皇陛下より勲章(勲三等瑞宝章)を授かりました。これはアラスカ映画「狼の影」に出演してすぐのことでした。この映画の役どころは、エスキモーの村長でした。外は零下10~20度の凍りつくような寒さの中での撮影でしたが、このころから体調が思わしくありませんでした。それから暑いハワイに行き、娯楽映画「ピクチャーブライド」に出演しました。父の役どころは旅をしながら人々に娯楽を提供する映画弁士というものでした。大正時代に多くの日本人がハワイのさとうきび畑を耕すために50人で集団移住したというストーリーの映画です。それから私たちの危機は1995年に来ました。それまで父の面倒を見るといっていた母が亡くなり、我が家は悲しみにくれました。この年、父は遺作となった映画「深い川」に出演しました。父はやせてきました。仕事の途中でよく気分が悪くなりましたが、彼の中で自分自身を取り戻すために莫大なエネルギーが消耗されました。その頃、彼と私は撮影所と病院のあいだを頻繁に往復しました。そして容態が悪化し、とうとう入院しました。それから後、外には2度と出ることはありませんでした。数ヵ月後、父は多臓器不全で亡くなりました。父の部屋は今でも生前のままの状態です。戦争時には飛行機に搭乗し、空撮写真家の役目を負っていました。飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートが最後のままの状態にあり、その他、古いいろんな物が残りました。あとでこれら遺品の数々を見て彼のことを偲ぶことができる資料館のようなものを作ろうと思っています。」
<レクイエム>
芸術家の運命は過酷である。
亡くなって初めてその空虚感からその芸術家の偉大さを改めて認識させられることがある。
三船は時代劇および映画製作者を守るため映画プロダクション・俳優学校を創設しました。この偉大なる志を達成するには、天才三船の手ひとつではあまりに大き過ぎた。1998124日、青山葬儀場前には偉大な彼に敬意を払うため、映画評論家たち、親交の深かった映画関係者ら何百人もが弔問に訪れた。地方からもファンらが多数、背中が丸くなったお年寄り、リュックを背負った若者までヘビのように連なる行列をなす何百人もの人々が白いカーネーションを今は亡き俳優の大きな遺影に捧げた。集まった人々に、黒澤監督のメッセージが読み上げられた。
三船君の訃報を聞いて驚いています。具合が悪いと聞いていたので、三船君に会いたくてずっと気になっていた。会って、本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。私が葬儀委員長を引き受けて、三船君らしく華やかに天国に送り出したい思いなのだが足腰を痛めて表に出られないので残念だ。急だったので、色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。黒澤明」
三船敏郎:144本の映画に出演し(うち126本主演)日本の映画界に50年に亘って貢献した。
Dom-Mikó István
Inter Japán Magazin

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