三船伝説 2

2012. július 17. kedd
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ドマ・ミコーと三船史郎氏

1999年、ベネチア国際映画フェスティバルにて大反響を呼んだのは、「雨あがる」という日本映画だった。この素晴らしい映画は、世界の巨匠黒澤監督がこの世を去ってから一周忌に、彼の残した遺稿に正確に従って製作された。黒澤監督は一つの作品を準備のために数年間費やした。ストーリーを書き、幾度もそれを推敲した。黒澤監督は素晴らしい美術監督として出演者の衣装のみならず、キャラクターも細部にわたってデザインした。どのようなことも偶然に身を任せることはなかった。細かい指示も記された、膨大な量の画コンテ(=絵コンテ)を用意した後、やっと映画を撮り始める。黒澤映画の魔力の秘密は、緻密で完璧であることに由来するのかもしれない。監督が触れたものは、すべてになった。彼の全映画は世界で成功した。「新人の時、巨匠の監督と仕事をした」というだけで、日本映画界においては一番のお墨付きを得た事となる。

映画プロダクションをプロデュースする黒澤の息子である久雄さんと娘の和子さんは、最後の台本から父への追悼の映画を作ることを決めていた。素晴らしい「黒澤組」を再び結集するため、二人は偉大な監督と共に長年働いた旧友とスタッフを招集した。欠けていたのは、偉大な監督だけだった。

 

「雨あがる」で新しい映画スター三船史郎が生まれた。、コミカルでやんちゃな殿様役で映画ファンのハートをつかんだ。「MIFUNE」の名前は世界では特別な意味がある。日本の人々は、亡くなった伝説の俳優である父の仕事を息子が継承していくことに期待を寄せている。

私は三船史郎さんと長い付き合いがある。物静かで学者タイプ、大変インテリジェントであるにもかかわらず、素晴らしい俳優でもある。通常の芸能界の二世俳優とは異なるタイプの人物だ。しかし、自分のことを彼はどのように語ってくれるだろうか。

 

 

<侍の父からのスパルタ教育>

 

ドマ:史郎さん、あなたのご両親はどのような方でしたか。

 

史郎:ふたりが恋に落ちた時、父は30才。これからを期待される若手ホープとして活躍していました。母は22才で女優の卵でした。母の家族は母が女優になることには反対でした。ましてや、父との結婚には猛反対していたようです。ふたりは親の反対を押し切って一緒になりました。駆け落ちのような形で東京の世田谷に部屋を借りて住みま始めました。父の両親は戦争で既に亡くなっていましたから、親代わりとして結婚式には、父の俳優仲間である志村喬さんご夫妻が出席してくれました。(志村氏は映画「七人の侍」のリーダー役として有名)志村さんご夫婦は本当の祖父母のように、ずっと私ども家族を見守ってくれました。私は1950年に生まれました。私が生まれてからは母方の家族とも仲直りして、その4年後には弟の武志も生まれました。

 

 

三船一家

三船一家

 

ドマ:誰もが嫉妬する世界のスターの息子は、どのような子供時代を過ごしましたか。

 

史郎:私が生まれて次の年に、父がベネチアで「羅生門」という作品でグランプリを受賞し、世界の映画界でも認められました。この頃から良い役をもらい、我が家の経済状態も好転しました。しかし、父があのようにしつけに厳しくなかったら、私たちは幸せな子供時代を過ごすことができたでしょう。でも、映画で最大の力を発揮するため、常に神経の糸を張り詰めて生きていました。家族とともに過ごす時間については、誰も私たちをうらやむ人はいませんでした。父は映画の仕事で毎日忙しく、たまに早く帰ってきた時には、ウイスキー1本を飲んでストレスを発散し、今日撮影したシーンを身振り手振りを交えて家族に再現して見せるのでした。この頃は、父の映画をあまり劇場に観に行きませんでした。怒った侍の迫力は、映画館でよりも我が家だけで十分だったからです。でも、父は有名人とは信じられない、もう一つの顔を持っていました。整理整頓のマニアでした。テーブルに本が斜めに置いてあると、駆け寄ってきてすぐにまっすぐに直したり、床や道にゴミが落ちていると、渋い顔で拾ってゴミ箱に捨てたりと、とても几帳面で潔癖でした。また、大の車好きで、MG-TDというスポーツカーや、英国での撮影のあと、現地でシルバークラウドというロールスロイスを購入しました。当時、日本全国でロールスロイスは2台しかなく、所有していたのは天皇陛下と父だけでした。この車を洗うのは、父しか許されませんでした。履歴書の趣味の項目に「掃除」と書いてある芸能人は、父だけだと思います。でも、家族の良い思い出もあります。1960年に父がメキシコ映画出演が終わった後、家族を世界旅行に連れて行ってくれました。

侍役者と息子たち
侍役者と息子たち

 

 

<俳優としてのスタート>

 

ドマ:あなたと映画とのつきあいは、どのように始まったのですか。

史郎:19才のとき、私は生まれ育った街の成城大学経済学部の学生でした。長年、黒澤映画での助監督をしておられた出目正伸監督の「その人は女教師」に主役で出演してくれないかとお誘いを受けました。またやはり同じく黒澤組のアシスタントであった松江陽一さんという方からお話がありました。私はこの時、父親の「俳優」という仕事がどういう物か興味を持っていました。

映画では当時フランスで実際に起こったストーリーを使いました。ある学生が自分の学校の女教師を好きになってしまって苦悩した挙句、自殺に追い込まれてしまうという話です。撮影はベットシーンまでは順調に進みました。しかし、私は非常にシャイで奥手な青年でしたので、演技とはいえども恥ずかしくてたまらなかったです。

当時、父はスタジオに映画のために5頭ほど馬を飼っていました。ですから私は毎日馬たちの世話をしたり、馬に乗ったりしていました。わかります? 馬に乗ると膝の内側の皮膚が剥けた跡がつくのです。大学の馬術部の友人たちが映画を見て、「膝の皮がむけていたのは乗馬ではなく、ベットシーンの撮り直しを何度もしたからだ」などと冷やかすのです。こういうこともあって、映画を撮る興味はなくなりました。

2本目の映画「2人だけの朝」は、既に私の意志は無視され、父から次はこれをやれ、と一方的に決められてしまいました。うちのプロダクションが制作していたので、父の仕事の手伝いになるのであれば、と2本目を引き受けることにしました。

次はカリフォルニア大学(UCLA)の映画科を卒業して、父の海外での仕事を手伝ってくれていた日本人監督を起用して、日米合作映画を作るようにと、言ってきたのです。まだ学生だった私は、撮影可能な2ヶ月間の夏休みだけでは撮影が終わらず、冬休みに再度渡米しなければなりませんでした。当時、私は大学の馬術部のキャプテンでモントリオールオリンピックの馬術の選手として参加したいと思っていたのですが、父から激しく怒られました。親への反抗心で、命令に背いて母の実家にかくまってもらったのです。父は未完成のフィルムを抱えて黒澤監督に持ち込みましたが、監督は首を振り、「三船ちゃん、残念だけどこれだけじゃ映画にできないよ」と言われました。その後も時々カメラの前で仕事をしたことはありましたが、以来28年間、大きなものはありませんでした。

 
三船敏郎氏、史郎氏、奥様

三船敏郎氏、史郎氏、奥様

 

 

<人生の学校>

 

ドマ:なるほど。ではまた、あなたの学生時代の話に戻りましょうか。

 

史郎:大学卒業後、1972年よりケンブリッジの学校に語学留学しました。その後、父の命令でドイツのミュンヘンにも行きました。この頃、父はサッポロビールのコマーシャルに出演していて、ミュンヘンはよくCM撮影で訪れていました。サッポロはミュンヘンの姉妹都市なのです。そこでさまざまな交流が深まる中、1975年に父はそこに日本料理のレストランをオープンしました。120席、3つの日本間、茶室などがあり、総勢25人のスタッフがいました。そこで私は副支配人、のちに支配人を務めました。初めの1年は毎日14-15時間働き、休みはありませんでした。

8年経って日本に帰りました。1960年代に日本映画が斜陽化すると、私の父と黒澤監督が働いていた東宝は、自社映画の製作を止め、独立プロダクションに発注していました。父も黒澤監督も、ふたりとも自分たちのプロダクションを設立しました。三船プロダクションは最盛期のころは150人のスタッフを抱えていました。その内役者は、43人所属していました。ふたつのステージとオープンセット、常時4本のテレビ時代劇やドラマの撮影が進んでいました。また、人材の補給目的も兼ねて、俳優養成所もありました。父は俳優としては偉大でしたが、会社を経営する事業家としては向いていなかったと思います。人間関係が上手く築けないのです。経営面を他人に任せていたので、いいように利用されてしまいました。

「残る文化」は新しい時代に合わなかったようで、テレビでは若い人たちのニーズに合った陳腐なクイズやバラエティー番組が前面に押し出されてきました。父には私の手伝いが必要だったので、私は日本に帰りました。私が大学で専攻していた経済学とヨーロッパでの8年の経験を駆使しても、もはや手遅れでした。伝統的な日本の映画制作を継続することは政府であればできたかもしれませんが、まず、養成所を閉鎖し、続いて撮影所も閉鎖しました。

 

三船敏郎氏、映画撮影で
三船敏郎氏、映画撮影で

ドマ:その後は。

 

史郎:私は父の仕事やプライベートの面倒をみることに従事しました。父はしだいに年をとり、仕事も難しくなってきました。健康を害してからは、母や家族の者たちで父を看病しました。父にとっても、この時期は母との平和なひとときを取り戻したようで穏やかな日々でしたが、それも長くは続かず、入院しました。1995年に母が亡くなり、その2年後、父も母の所へ逝きました。今、私は父の作った三船プロダクションを維持・存続させていくことが仕事となりました。

 

 

<俳優自己発見>

 

ドマ:お父様が亡くなられた後、そのときあなたは俳優になりたくないとお話くださいました。その1年半後、私に「雨あがる」の撮影をしていると教えてくれました。そのときの様子は今までにないほど幸せそうでした。三船史郎48才、自己を発見した、ということでしょうか。

 

史郎:俳優になりたくないと真剣に考えました。父の背中をずっと見てきたので、俳優であるという人生がいかに大変であるかを分かっていたので。

 

ドマ:映画で以前よりもっと魅力のある役柄をもらったのですか。

 

史郎:父が亡くなったあと10ヶ月して、黒澤監督も亡くなられました。黒澤監督は父を世界のスターに育ててくれた恩人です。監督のご子息黒澤久雄さんや、お嬢さんの和子さんは、子供のころから仲良しです。監督の家族や昔からの黒澤組のスタッフの皆さんから、監督の遺言を実行するために最後の映画を作りましょう、と私にも声をかけて下さったのです。しかし、私はこの重責をはたしてこなせるか、全く経験や実績のない私にはとても不安でしたが、自分を信じて出演を決意しました、

 

「雨あがる」撮影(中央の殿様役が三船史郎氏)
「雨あがる」撮影(中央の殿様役が三船史郎氏)

 

ドマ:よかった! あなたは大成功でした。でも教えてください。28年のブランクからどのようにしてあのような名演技ができたのですか。

 

史郎:自分が演技を素晴らしいとは思っていません。ただ、無我夢中で一生懸命ぶつかっていっただけです。ただ、もしかして言えることは、他のまったくの素人の人に比べれば多少の俳優の経験があったことや、父の仕事の手伝いで撮影の環境や雰囲気を知っていたことでしょうか。しかし、撮影中は毎日が緊張の連続でした。唯一、緊張しないでできたのは馬上でのシーンだけでした。それだけは楽しく演じることができました。

 

ドマ:一番印象に残る映画は何ですか。

 

史郎:黒澤監督は「7人の侍」の撮影に14ヶ月もかかったことがあります。たとえば野武士たちの隠れ家を奇襲するシーンなどでは、燃え方がイメージ通りではないということで、隠れ家を3回も建て直しました。撮影に約13万フィート、40キロメートルにも及ぶフィルムが使われました。その代償として世界の映画史上に残る名作となったわけです。

 

ドマ:忘れられない俳優はどなたですか。

 

史郎:アラン・ドロンは私のエレガントのお手本です。彼は「レッド・サン」という映画で共演して以来、ドロンは日本のファッションメーカーであるダーバンのコマーシャルに出演してくれました。三船プロダクションがそのコマーシャルを制作しました。プロダクション設立15周年記念に特別ゲストとしてきたドロンは、土産のカルティエのライターを私に投げて渡しました。そのときの雰囲気がとてもカッコ良くてスマートで、印象に残っています。今でもそのライターは私の宝物として大事にとってあります。

 
侍との決闘 怒る殿様(三船史郎氏)

侍との決闘 怒る殿様(三船史郎氏)

 

ドマ:映画「雨あがる」は劇場公開されました。あなたの夢や希望はなんですか。

 

史郎:夢というにふさわしいか分かりませんが、まずこの黒澤組のスタッフのみんなが結束して一生懸命作った「雨あがる」を一人でも多くの人たちに観ていただいて、好評を得て成功してくれることです。そうすれば、天国の黒澤監督や父も喜んでくれると思いますし、私たちも一生懸命頑張ってよかった、と心から思えるからです。希望としては、この作品が成功すればまた次によい作品を皆で力を合わせ作ることができる。自分も再びそんな作品を作ることに参加できる。それが夢でもあり希望でもあります。

 

スティーブン・ドマ・ミコー(東京)


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